歌舞伎座2月『暗闇の丑松』『団子売』

  • 暗闇の丑松』も初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言である。長谷川伸さん作である。丑松は女房・お米の母と浪人を殺して江戸から逃げる。丑松はお米を信頼している兄貴分である四郎兵衛に頼む。一年後、お米恋しさに江戸にもどり、嵐で立ち寄った板橋の妓楼で女郎になっているお米と再会するのである。責める丑松。お米は四郎兵衛にだまされて身体を汚され、さらに女郎として売られ、それも転々と売り飛ばされていたのである。

 

  • 丑松はお米の話しに耳を貸そうとはしない。自分の身持ちの悪さを兄貴のしわざにして言い逃れしているのであろうと、なお一層腹を立てるのである。お米は怨めし気に丑松をそっと見つめて立ち去ってしまう。そして、嵐の中大木にぶら下がり自殺してしまうのである。店の者が風でお米の身体が揺れて降ろすのが大変であると告げる。丑松はお米の身の潔白を知らされるのである。

 

  • 四郎兵衛の家では、料理人たちが丑松のうわさをしている。丑松の事はお米の母も散々に毒づいていた。板前といっても洗い場や煮炊き専門で包丁も握らせてもらえないではないかと。料理人たちも丑松は親方にいいように利用されていて人がよすぎると。どうも、丑松は人を見る目が甘すぎるようである。それだけに兄貴の表の顔のみ信じていたのであろう。丑松は四郎兵衛の家に押し入り女房・お今から四郎兵衛は湯に行っていることを聞き出す。

 

  • お今は丑松のただならぬ様子から、自分の身体を投げ出すから四郎兵衛の命は助けてくれと言い出す。そんなお今に、いやだいやだ女は、惚れた男のためと自分の身を守るために自分を投げ出すのかと言って、お今を刺し殺すのである。丑松は四郎兵衛とお今の関係と同時に自分とお米の姿もそこに見ているのであろう。そしてそこに陥れたのが自分なのである。そのやるせなさが四郎兵衛を殺した後の花道を去る丑松の姿に重なっていた。

 

  • 何んとか今の生活から這い上がろうとする底辺の俗悪さをお米の母が映し出す。その俗悪さの中で、貧しくとも懸命に生きようとする一組の夫婦が願うような人の世の中ではなかったということである。物悲しい芝居であるが、丑松の菊五郎さんが皆に慕われている丑松であることを世話物のさらっとした感じで表される。板橋の妓楼で仲間内と会うが、丑松に対して好意的で丑松も力で納めるような人間ではない。そんな丑松だからこそお米も惚れたのであろう。それだけに丑松やお米のような人間が足下をすくわれるようないやな世の中が浮き出ている。

 

  • その闇のような暗さを風呂屋の裏方の様子で景気づけるのが湯屋番頭である。これまた元気であるが重労働である。この舞台、いつも井戸から水をくんでためるとき、本水であったろか。記憶が薄い。手の込んだ作りで江戸の人はよく考えたものだと思う。湯が熱ければ裏から水止めを上げて足すようになっている。湯桶も日に干し、個人専属の湯桶もある。そんな人々の触れ合いの湯屋の湯船で丑松は四郎兵衛を殺すのである。庶民生活そのものでの殺しの場面設定であり、後に独特の悲哀感を残す。

 

  • お米が養母に責められる部屋も隣同士がくっついていて、時々住民が窓からあの家らしいがと様子をうかがったりする。江戸の映画『裏窓』ではないかと思ってしまった。そういう点からも舞台装置が面白い芝居であり、粋な江戸のはずが、裏を返せばうら寂しい人間模様が見えてくる。長谷川伸さんならではの作品である。

 

  • 菊五郎さんの丑松と小さな幸せを願っていただけのお米の時蔵さんを軸に、ベテランが脇を固め、さらに次の世代の世話の形が出来てきているため台詞が生き生きとしてきていた。なんでもないような台詞に意味があることに気づかされる。落ちていく人のすがるもののない世の哀れさの機微を見せてくれた。

 

  • 浪人(團蔵)、料理人(男女蔵、彦三郎、坂東亀蔵)、妓楼の客(松也、萬太郎、巳之助)、妓楼の遣手(梅花)、妓夫(片岡亀蔵)、湯屋番頭(橘太郎)、お米の母(橘三郎)、岡っ引き(権十郎)、四郎兵衛女房・お今(東蔵)、四郎兵衛(左團次)

 

  • 団子売』(竹本連中)。江戸の物売りの舞踏で、「景勝団子」という名物があったらしい。くず粉ともち米の粉を混ぜて蒸してついて団子にして砂糖ときな粉をまぶしたもので、今でいう実演販売のようなものであろう。その団子売りの仲の良い夫婦の仕事ぶりと、息の合った様子をおかめとひょっとこのお面も使って踊りでみせるのである。軽快な明るい踊りで、芝翫さんと孝太郎さんコンビである。特に孝太郎さんの足の動きが働き者の女房を現わしていて、夫と一緒に働ける嬉しさを振りまいていた。

 

歌舞伎座2月『義経千本桜 すし屋』

  • 義経千本桜 すし屋』。今回は平重盛(小松殿)の名前が耳に響いた。平清盛の長男で平家の物語の中でも人望の厚かった人として描かれている。その重盛の長男の維盛(これもり)が奈良のすし屋にかくまわれているのである。すし屋の弥左衛門は重盛に恩義がある人である。高い身分の人や有名な事件の登場人物が庶民の生活の場に登場させるための常とう手段である。シチュエーションとして庶民に身近な話として観客に引きつける。そして大きな流れが庶民生活の悲劇へと展開していく。『仮名手本忠臣蔵』の勘平とおかる一家もそうである。

 

  • 『義経千本桜』と言えば奈良の吉野である。そこの名物のすし屋というのもよい設定である。そして、鮨桶が重要な役割を果たすわけで、並んだ鮨桶を間違うところがヒッチコックも使いたくなるかもと思わせるところである。お金が入っている鮨桶と人の首が入っている鮨桶の間違いである。熱心に見ている観客はその鮨桶の取り違いに「あっー!」と小さな声を発する。この首の主は小金吾という人物で、今回は上演されないが『小金吾討死』の場面に登場し、維盛の奥さんの若葉の内侍(ないし)と子息・六台君を守りつつ追手から逃れているのであるが、無念、殺されてしまう。

 

  • その死体に遭遇したすし屋の弥左衛門は、維盛の首の代わりにこの死体の首をと考える。家に隠し持参し鮨桶に隠すのである。これにより小金吾は結果的に維盛を助けることになるのであるから家来としては本望ということになる。さらに、小金吾の首は弥左衛門の息子であるならず者の男のいがみの権太を親孝行者にするのである。しかし、まさかいがみの権太が改心するなどと思わないから父・弥左衛門は権太を刺してしまう。全て忠義につながる悲劇である。

 

  • 弥左衛門には娘・お里がいて、公達の維盛が奉公人としているわけであるから惚れないわけがない。周囲から怪しまれないようにと維盛とお里は明日祝言をあげることになっている。そこへ維盛の奥さんの若葉の内侍と子息・六台君が一夜の宿を求めて訪ねて来る。本妻の登場である。お里は寝ており、出来すぎているがきちんと考慮された設定である。

 

  • 一つの部屋に低い二つ折り屏風で仕切られていて、この屏風の置き方に注目である。屏風の内側は外からは見えず、内の者は外の様子がわかるのである。その後も屏風はしっかり役目を果たし隠したい人を隠す。そうした道具の扱い方も役者さんの役になってのしどころである。

 

  • 一つの舞台で行われる舞台劇であるが、ヒッチコック映画にもこうした一つの部屋で起こる殺人事件の映画があるがそれは先に伸ばすこととする。この一部屋に出たり入ったりして活躍するのが、いがみの権太である。歌舞伎は花道があるので、その出入りもみえるのが強みで、そこが役者さんの見せどころでもある。登場人物の特色をみせなければならない。松緑さんは何かありそうなヤツだなあと思わせる出であった。母親をだます自分自身がオレオレ詐欺のような人物である。ところが観客も家族も見た目で見事にだまされるのである。そして、父に刺されてからの権太の謎解きの告白になる。松緑さん、解ってくれよ親父さまの語りである。

 

  • 自分の妻子をも巻き込んだ梶原景時をだます大博打である。しかし、頼朝はそれを見抜いていたという更なる展開となる。清盛の継母・池禅尼が重盛を通して頼朝を助けたということから維盛を逃がしてやるのである。台詞の中にこうしたことがちりばめられている。これは夜の部の『熊谷陣屋』で義経が敦盛を平宗清に預けるのと類似している。観客もこうした情を好んだためでもあろう。

 

  • 初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言の一つである。松緑さんのいがみの権太はもう少し悪の強さが欲しい気もするが、母親をだませても頼朝はだませず、親孝行で終わるという悪さ加減からいえば正解なのかもしれない。菊之助さんの奉公人の弥助から維盛になる変わり身の変化が、手ぬぐい一つの扱い方、袖の扱い方などを通してなるほどと思わせられた。お里の梅枝さんの身体も綺麗に動いていた。若葉の内侍の新悟さんはもう一歩貫禄が必要で、亀三郎さんの六代君の可愛らしさに助けられていた。母・おくらの橘太郎さん、父・弥左衛門の團蔵さん、梶原景時の芝翫さんと役どころを押さえられているので台詞を堪能でき、『すし屋』の構造が明確になった。(梶原の臣・吉之丞、男寅、玉太郎、橋吾)