『菅野の記』と白幡天神社

「菅野の記」は幸田文さんが、千葉県市川の菅野での父・露伴さんと娘・玉さんと暮らし、露伴さんを看取ったことを書かれた作品である。生半可な情緒的な文ではない。その町の人々をも観察し、介護の事、そこで生じる人間としての葛藤、ふと目にする自然のことなど、細部に神経が鋭く自分にも他人にも家族にも動いていて文学者の神経であり目である。

その中で、白幡天神社のことが出てくる。この神社の裏にあたる所に住まわれていたのである。「白幡神社の広場の入口に自動車がとまっている。いなかのお社さまはさすがに、ひろびろと境内を取って、樹齢二百年余とおぼしい太い榎が何本も枝を張っていた。海岸が近いから若木のときには相当揉まれて育ったのだろう、皆それぞれに傾斜をもって節だっていた。ものはその収まるところどころによる。榎はこんな広い処ではなかなかよかったし、枝のふりにはおもしろい趣きがあった。」「小石川蝸牛庵の前にも二百何十年とかいわれる大榎があった。」「小石川伝通院の榎は孤独で焼け傷んでいた。」白幡神社の榎から三か所の榎について語られる。

白幡天神社は、もとは白幡神社といい、源頼朝が源氏の御印の白幡を掲げたことに由来し、祭神は竹内宿禰(たけのうちすくね)で菅原道真を合祀して、白幡天神社と称された。幸田文さんが住まわれたころは、白幡天神社となっていたが、土地の人は古い呼び方で親しんでいたのかもしれない。この神社は永井荷風さんも出没したところで、水木洋子市民サポーターのかたも子供の頃そこで荷風さんを見かけたと言われていたので、訪ねてみた。

京成八幡駅ホームから荷風さんがかつ丼を食べに通われた大黒家が見える。踏切を渡ると荷風の散歩道として小さな荷風さんの顔が並ぶ京成八幡商美会通りである。狭い道幅に車と人が通り、その横を自転車が慣れているのかスイスイ通って行く。水木洋子さんが利用したうなぎ屋さん。荷風さんが利用した文房具屋さん。幸田文さんが利用し「菅野の記」にも出てくる魚屋さんなどが今も商売をされている。荷風さんが通われた銭湯の高い煙突も見える。文さんが利用したお酒屋さんを左に入ると白幡天神社である。文さんや荷風さんが住まわれた頃は田舎であったのであろうが、今はびっしり住宅があり、神社もこじんまりとしていて、掃除が行き届いて落ち葉も掃き清められていた。

鳥居を潜った左手に幸田露伴さんの文学碑があり、裏には<幸田露伴は小説「五重塔」「運命」等の作者である。昭和12年第1回文化勲章を受章、同21年に白幡天神社近くに移り住み菅野が終焉の地となった。露伴の晩年の生活をしるした娘の幸田文の「菅野の記」には当時の白幡天神社が描かれている。 平成22年8月吉日>とある。

東側の入口の左手には永井荷風さんの碑もあり、永井荷風の名の右側に<松しげる生垣つづき花かおる 菅野はげにも美しき里>とあり、左には<白幡天神社祠畔の休茶屋にて牛乳を飲む 帰途り緑陰の垣根道を歩みつゝユーゴーの詩集を読む 砂道平にして人こらず 唯鳥語の欣々たるを聞くのみ(断腸亭日記)>と記されている。こちらも建立されたのは平成22年夏吉日である。

同じ白幡天神社でも文さんと荷風さんとではその位置関係は相当違うであろう。文さんは露伴さんの介護のために氷を求めたり、食材やその他のものを求めて何回このそばを通られたことだろう。それは荷風さんの散歩とは違うのである。

文さんは文化勲章をもらい、文豪と奉られている露伴さんを介護しているが人はそのことに目がいっている。そのことは解ってはいるが、私は父を看ているのであると言うことを主張される。その世間の目からくる重圧。なにかがあると全て自分に係ってくる責任。そのことをしっかり受け、吐き出しつつ日々の仕事をされている。さらに露伴の名前を出せば便利を図ってくれることは解っていることでも、それを潔しとはしない。そんな中でも榎を見ると、三か所の榎を思い描くのである。

菅野での住まいの長屋のあったところには違う住宅が建ち、入り組んだ住宅街の道となっている。そこから駅まで歩きもどりつつ、何度も仕立て直した浴衣に男帯を締め父のために氷を求めて歩く文さんの姿と、人とは違う生命を感じて木を見つめている文さんの姿が前を歩いているように思えた。やはり凛とされていた。