平成25年12月国立劇場 歌舞伎公演 (1)

今回の国立劇場の歌舞伎公演は、忠臣蔵の幹から伸びた枝葉の面白さであろうか。演目もそうであるが、出演者の役者さんも枝葉の伸び盛りの方達が多い。木枯らしにも負けず、折れそうでしなり、落葉しても色づいて風を舞う頑張りを見せていた。

『主税と右衛門七(ちからとえもしち)』『弥作の鎌腹』『忠臣蔵形容画合(ちゅしんぐらすがたのえあわせ)』

『主税と右衛門七』は、討ち入り前夜の主税と右衛門七のお互いの高ぶる気持ちの高揚を打ち明ける話である。主税(隼人)は15歳、右衛門七(歌昇)は17歳である。右衛門七は、主税が世話になっている大野屋の娘・お美津(米吉)に結婚をせまられている。今日は13日。明後日、15日に返事をすると約束する。討ち入りが終わった翌日である。それは、当然断りの返事であるが、返事をすることの出来ない事態となっていることであろう。お美津は何も知らず、右衛門七に金の鈴を渡し、自分は銀の鈴を嬉しそうに鳴らす。

少し横道に逸れるが、劇団民芸 『八月の鯨』でサラが、戦争で亡くなった夫の写真を前に一人結婚記念日を祝うところがある。ワインと白と赤のバラ二本。白のばらは真実、赤のばらは情熱とあなたは言ったとつぶやく。金と銀の鈴も和風のアクセントでお洒落である。この芝居の初演は昭和34年(1959)である。

右衛門七とお美津のことも感じ取り、主税は、恋も知らずに死んでいく自分を顧みる。右衛門七は足軽の息子である。父も死に、母は右衛門七の討ち入りの邪魔になってはいけないと自害している。自ずと、主税と右衛門七の立場は違う。そのことを踏まえて二人は、友人のように、兄弟のように打ち解け合い語り飲む。欲をいうなら、歌昇さんには、足軽の立場から友人、あるいは兄の立場となるところの変化が欲しかった。心理を語るのは上手い。歌舞伎の場合、この立場、階級的雰囲気が大切と思う。それは隼人さんにも言えることで、この形を分らせて初めて、歌舞伎の心理劇は成立すると思う。そこが歌舞伎の厄介なところである。米吉さんは町娘の愛らしさを段取りよく動いていた。時間がたつと考えずに動けるようになるのであろう。お琴、足軽踊りなど心理にかぶせる音、動きも加わり若手としては遣り甲斐のある作品と思う。短すぎる青春である。

そんな若者二人に対して、大石内蔵介(歌六)は、二人の気持ちを沈める言葉を伝え花道より迷いのない平常心で消える。

この作品の作者は、多くの映画脚本を書かれている、成澤昌茂さんで、私が見た映画(DVD)だけでも「雁」「噂の女」「新・平家物語」「赤線地帯」「浪花の恋の物語」「宮本武蔵」などがある。初演の時、右衛門七が染五郎(現幸四郎)さんで主税が萬之助(現吉右衛門)さんであった。筋書に成澤さんが当時の染五郎さんと萬之助さんの芝居に対する違いを書かれている。なるほどとその表現に納得する。初演から半世紀を超えているのである。

追記: 成澤昌茂さんがとらえた当時の染五郎さんと萬之助さん。「染五郎は、持ち前の勘の良さで役の性根をパッと掴む。萬之助は、役の性根を、じっと握りしめて、苦闘する。」

劇団民芸 『八月の鯨』

『八月の鯨』は映画にもなった。たしか岩波ホールで見て、リリアン・ギッシュとベティ・デイヴィスが共演し、それも高齢になってからの共演で老年をあつかった映画として話題になった。よくわからなかった。リリアン・ギッシュは可愛いおばあさんでベティ・デイヴィスは皮肉屋のおばあさんといった印象で、若い頃の映画の役柄をも表しているのだろうかと思ったものである。鯨を待っていて、待っている鯨は現れない。「ゴドーを待ちながら」を重ねているのだろうかなどとも考えたりしたものである。

今回舞台の『八月の鯨』を観て、こんなに静かな心もちであろうか。もっと老いとはドロドロした内面なのではないだろうかと考えた。マグマは見せなかった。歳をとると諦める、諦念の心境に入ると思われがちだがそうとも言い切れない。

アメリカのメイン州沿岸の島の別荘で夏だけ過ごすことになっている二人の老いた姉妹の、ある夏の話のようである。ここに住み着いている二人と思っていたのでその点でも捉え方が違ってきた。姉のリビー(奈良岡朋子)は目が不自由らしく、さらに動きも思うようにはいかないため、妹のサラ(日色ともゑ)が面倒を見ている。サラは老いてはいるが、家事一般をするにはまだ大丈夫のようで、体を動かせる喜びを感じつつ楽しそうに家事に勤しんでいる。バザーに出す品物の制作もし人との付き合いも上手くいっている。リビーのほうは、老いる前からそうだったのかどうかは定かではないが、サラのやることに皮肉を言ったり人付き合いも上手いほうではないようだ。人に頼まなければ出来ないという立場は辛いことで、老いとともにそうなったのかもしれない。

周りには、毎日訪ねてきてくれる友人・ティシャ(船坂博子)や家の修繕などをしてくれるジョシュア(稲垣隆史)がいて、二人の話仲間となってくれている。そこへ、マラノフ(篠田三郎)というロシアから亡命してきた貴族が、釣った魚を持参してディナーとなる。マラノフは紳士的で話方も優雅でサラは次々質問するがリビーは早々と自分の部屋に入ってしまう。

サラは姉の仕打ちを謝るがマラノフは言う。<お姉さんは見抜かれている。> それはマラノフの本心を見抜いているということである。ある意味、リビーとマラノフは同じ立場なのである。誰かのお情けを必要とするのである。それを上手く取り入るか、それが嫌さに依怙地にならざるおえない老いの悲しさと闘いがある。お互いにそれを感じているのであるが、言葉で説明するのは難しいことである。時間とともにそれぞれの問題となってくるのであるから。リビーも自分のためにサラを縛っておくわけにはいかない。サラもこのままだと姉に対する愛情がなくなってしまうかもしれない。と二人が感じたかどうかは解らないが、そう受け止めた。

時間と状況が変ると二人の関係もまた変ってくるのかも知れない。ただかつて見た鯨の訪れた時は去ってしまったのである。だからといって時間は止まるわけではない。時間はもう前に進んでいるのである。どうやってその時間を埋めていくのか。それぞれの課題である。

奈良岡さんはもっとマグマを爆発させるのかなと思ったが、意思の強さをだしつつ、老いとの闘いを内に秘めつつ演じられていた。日色さんは、リビーの老いの状態までいっていない若さを明るく、今の老いを楽しんでいる様子を表現された。海を感じ、風を感じ、その自然の風景を観客に見せてくれた。過ごしやすい所なんだろうなあ。それだけに、リビーの老いの状態からくる心のやり場のなさが解るのである。

芝居が終わってから出演者との交流会があり、訳・演出の丹野郁弓さんが、「作者であるデイヴィッド・べリーが今回の舞台を観てくれて今までで最高のシチュエーションだと言ってくれた。」「バックから鐘の音が聞こえていたと思いますが、これは、パンフレットの表紙の写真にありますが、舞台となった海にあった浮標ベル(ブイベル)の鐘の音です。」と教えてくれた。その音を出すために波の音が小さめだったのかもしれない。教会が遠くにあるのかなあと思たりもしていた。客演の篠田さんの役は、詐欺師としたくなかったと丹野さんは言われた。映画のマラノフの人物像は忘れていたので、マラノフの台詞にはハッとさせられた。漂泊。パンフレットの写真を見つつ、浮標ベルは漂いながらも海の道標で、小さくても意味のあるもので、忘れられそうで忘れられない存在である。

奈良岡さんは、「是非生の舞台、ライブを見てください。音楽でも芝居でも民芸だけでなく他の芝居も。それから自分の好きなことを見つけて下さい。何でもいいんです。小さなことで。好きなことをやるのが元気の素です。」と話された。

(2013年12月4日~19日 三越劇場)