大須演芸場

名古屋の大須演芸場が来年の1月で閉館となる。それを知って行動するのは忸怩たるものがあるが、一度は大須演芸場に座りたいと思っていた。関西方面への旅の時は何回か計画したのであるが、公演時間の関係から上手く組み入れることが出来なかった。なぜその場に座りたかったのか。志ん朝さんが1990年からそこで独演会を始めたと知っ時からである。

志ん朝さんが亡くなった2001年の10月に友人二人と犬山、明治村、名古屋の旅を計画していて、早過ぎる死に気落ちしつつの旅であった。二人の友人とは小中からの長い付き合いではあるが三人での旅は初めてである。長い付き合いを良いことに新幹線の中でも、今しゃべりたくないから二人で気にしないで談笑してと勝手を決めさせてもらう。次第に気分も晴れ間を覗かせ、名古屋での宿泊の夜は居酒屋でのお酒も美味しく飲めた。次の日、ひつまぶしを大須観音で食べようということになり、大須といえば大須演芸場もあるなと思い出す。大須観音にお参りし、大須演芸場の場所もわかり、ひつまぶしのお店を探す。友人がここが好さそうと当たりをつける。当たりであった。私たちの横の席で年配の方たちが、志ん朝さんの亡くなったことを話題にしている。物凄い親しみを込めて残念であると話されている。

こんなところで関東の落語家さんがこんな親しみをもって話されるとは、やはり志ん朝さんはさすがである。本当に残念でなりませんと思わず話しかけてしまった。その中のおひとりはこのお店の大女将さんで、そのお仲間と談笑されていたのである。そのお仲間が帰られて、大女将さんが私たちに話しかけられ、名古屋弁が生活から消えていくことを嘆かれていた。そして、名古屋弁を残すために小さなメモ帳のような製本された冊子を作られていて、お土産にどうぞとそれぞれに下さったのである。本当にこの地に愛着をもたれているのである。私たちは恐縮しつつ有難く頂戴した。

その旅から帰ってからである。大須演芸場の窮状を知った志ん朝さんがここで独演会を開催をされるようになったと知ったのは。そうであったのか。あの親しみの感じは。納得できた。その時一度は大須演芸場に座ろうと思ったのである。大須演芸場が無くなるということを聞かなかったら、まだ先伸ばしにしていたかもしれない。

出演者の中に快楽亭ブラックさんの名がある。<落語界の鬼才>とある。奇縁か鬼縁か。ブラックさんの名前を知ったのは、新聞に連載していた映画紹介の記事からである。見た映画見ない映画、どちらの映画も紹介や感想を毎回楽しみに読ませてもらっていた。そして、師匠の談志さんとの一緒の落語会で初めて聞かせてもらう。開国のころを題材にされていたのか(記憶が定かではない)外国人も登場し今まで聞いたことのない噺で面白かったのである。その後、浅草公会堂での新春浅草歌舞伎で、綿入れ半纏のブラックさんらしいいでたちの姿を見かけたことがあり、歌舞伎も見られるのか(落語家さんなのだから当たり前といえば当たり前ですが)と思っていたら、歌舞伎の本を出された。私の考えと違うところがあったので、本に挟まっていた葉書に意見を書き出版社に送ったが読んで貰えたかどうか。

今回の演目は「錦の袈裟(けさ)」。無難なまとめかたでした。志ん朝さんを思い出させてくれたのは、前に出ていた出演者の方をいじった時。志ん朝さんも前に出ていた方の話を聞いていて、ある二世の落語家さんが誰々の息子できちんと前座の修行もしたんですと言われたのを、落語家なんてたいした修行なんてしなくたってなれます。修行しているというのは、翁家のような曲芸で、あれは修行しなくては出来ません。と言われたのを思い出した。志ん朝さんは若手の修行の場としても演芸場を大切に考えられていた。

それに対し談志さんは、落語協会を辞められたため、お弟子さんたちはその日から自分たちで落語をやる場所を探すこととなった。志の輔さんも下北沢での出発時の話をされていたが、皆さん這い上がってこられた。次世代の育て方も様々である。ブラックさんはさらに違う育ち方をされたようであるが。<場>を維持するということは、演者と客との闘いでもある。それを提供する方の闘いも想像以上であろう。名古屋で生の演芸が見たり聞いたり出来なくなるのであろうか。

アクの強い芸人さんの中に、どういう事からここにいることになったのであろうか、と思わせる娘さんが出てきた。お茶子さんのような立場か、前座の芸人さんとも思われないが舞台の道具立てをする。お茶子さんのような着物を着ていて、機能的な動きで好きな動きである。次の出演の落語家さんの座布団を運んできた。それをトンと置いた。上には背の低いマイクを乗せていてそれを舞台の中央に置き、コンセントなのであろうか舞台の小さなふたを開けセットする。体が沈みそうもない座布団を持ち上げてから置いて、座布団中央の押さえの糸を、やっても無理だけれどと(これは私が新しいとは言えない座布団で綿を押さえている数本の糸もくたびれて見えて、整えても無理だけどやるに越したことはないと思った気持ちとの重なりで彼女の仕草と重なった気持ちの反映であるのだが)糸を少し整える。そして程よい動きで右そでに消える。落語が終わって彼女の動きを見るのが楽しみだった。コンセントを外し、そのマイクを座布団の上にポンと乗せそれを抱えて右そでに消えた。ただそれだけであるのに、機能的でそして程よい動きが気持ち良い。彼女は意識していないであろう。役目だからやっているのであろう。程よい動きというものが、程よい心持ちにするということを感じさせてくれた。

大須演芸場のお土産である。