平成25年12月国立劇場 歌舞伎公演 (3)

『忠臣蔵形容画合』は、仮名手本忠臣蔵を基盤にした舞踏劇とでも言えそうである。仮名手本忠臣蔵のパロディーとも言える。大序から七段目までである。作者はあの河竹黙阿弥。

初演は慶応元年(1865)で明治元年(1868)が慶応4年の9月8日からであるから、明治になる約3年前であろうか。ということは、幕末の紛糾している時でもある。その時期に忠臣蔵をパロディー化するということは、黙阿弥は武士の時代は終わると考えていたのであろうか。そのあたりの黙阿弥の考えを知りたいものである。黙阿弥が亡くなるのは、明治26年(1893)78歳の時である。黙阿弥は江戸時代を約50年、明治時代を約30年生きたことになり、明治に入っても作品は数多く書いている。江戸と明治に分けて黙阿弥の作品の変化を調べると黙阿弥の時代性が出てくるのかもしれない。そう思うだけであるが、そう考えるとこの『忠臣蔵形容画合』も時代の狭間に入っているようで、興味がわく。

『仮名手本忠臣蔵』と違い、軽いタッチのものである。音楽も竹本、清本、長唄と変化に富んでいる。大序の鶴ケ岡八幡宮前での、師直(又五郎)、塩冶判官(種之助)、若狭之助(歌昇)が引き抜きで奴三人となり踊るのである。酒による、怒り上戸、笑い上戸、泣き上戸である。又五郎さんとお子さん二人の踊りは初めてである。種之助さんは、愛嬌のある笑い上戸であった。おかると勘平の色にふけったばっかりにの逢引場面は米吉さんと隼人さんコンビ。

顔世御前(魁春)の桜の場面は初めてである。廣松さんが女方。記憶に残っているのは力弥。今回の力弥は鷹之資さん。11月の歌舞伎座でも力弥でした。何れは供奴を踊るでしょう。

斧定九郎が、歌六さんで凄味があります。ところが、与市兵衛との二役で、さらに猪となった与市兵衛と踊るという趣向。あれあれ花道に来てしまった。でもやはり鉄砲には撃たれます。与市兵衛の女房おかや(東蔵)は、与市兵衛と勘平を偲んで村の衆と念仏踊り。いつも忠義側の松江さんもひょうきんにと努められているのが可笑しい。

七段目はおかる(芝雀)と平右衛門(錦之助)の人形振り。思いかけない様々な様式を使いこの役がこんなかたちでと楽しみました。そして役者さんたちの変貌ぶりにも楽しませてもらいました。吉右衛門さんは定番の由良之助で貫禄たっぷりに締めて下さった。

黙阿弥さんは楽しんで書かれたのでしょうか。それともこれだけのアイデア四苦八苦だったのでしょうか。前者と思います。

供奴が出ましたので横道へ。『小石川の家』(青木玉著)の「長唄」に、露伴さんが三味線音楽で最も好んだのは長唄だろうと書かれていて、家で先生と供奴をお稽古している時の様子が描かれている。「時に祖父も混じって大合唱のテンツルテンツルで「見はぐるまいぞや、合点だ」となる。」 露伴さんが供奴を唄うとは、なんだかパロディーのようである。ラジオから流れる長唄もよく聞かれていたようである。