明治座5月花形歌舞伎『矢の根』『鯉つかみ』

『矢の根』。市川右近さんの五郎は元気いっぱいで、初役とは驚きである。澤瀉屋の荒事の代名詞的役割である。コタツ櫓に座っての振りは、今回は右手が気になってずーと見ていた。あれはこのように動かすという約束ごとがあるのであろうか。右手の動きが五郎を大きくみせていた。五郎は派手で豪華な衣装を着ているのに貧乏暮らしなのである。そこが庶民の五郎贔屓の表れなのかもしれない。声もいいし、稚気もありスカッとさせてくれた。亀鶴さんは大薩摩文太夫もお正月に相応しい行儀も良さがあり、笑也さんは十郎の憂いがあり、猿弥さんの馬方はいつもながらのひょうきんな明るさで組み合わせもよかった。

『鯉つかみ』。「鯉や鯉なすな鯉」ではないが、鯉の尾ひれパンチには笑ってしまった。魚類では、一番の出来である。目玉を白黒させ、死んだ真似もして、愛之助さんの空手チョップもなんのそのである。尾ひれパンチの水しぶきは迫力があった。

これは初めて観る。今回通し狂言としたということで、愛之助さんは六役の早変わりである。奴はわかるが、みんな白塗りのいい男の役なので、途中からやっと役が理解できたりする。そして、筋が解りづらい。最初に俵藤太のムカデ退治があり、そのあと、琵琶湖の水中の世界となるらしいが、そこらがよくわからなかった。市川右近さんが御注進で説明にくる。この御注進は格好よく動きもよいが、言葉が難しくてよく理解できない。筋書きによると、俵藤太が倒したムカデの血が琵琶湖を汚し、鯉一族の皇子が龍に変化できるところが、血で汚れて龍になれず、末代まで俵藤太家を恨むということらしい。それで、愛之助さんの白い着物が赤くなったのかと納得した。

この俵藤太の末裔の釣家が鯉一族の怨みから、釣家の娘小桜姫を鯉の精が化けた志賀之介を好きになってしまう。その小桜姫と鯉の精・志賀之介の夢の中での逢瀬から流れが解って来て面白くなってくる。小桜姫の壱太郎さんと鯉の精の愛之助さんが優雅に舞う。夢から覚めると志賀之介が現れ、小桜姫と志賀之介は手を取り合って奥へ入る。釣家では家宝の龍神丸が紛失しているが、奴がそれを取り返し届け、鯉の精も本物の志賀之介に弓で射られ、琵琶湖に逃げ込み、そこで、大鯉と志賀之介の愛之助さんとの本水舞台の闘いとなり、鯉退治となるのである。

ムカデ退治と鯉退治があり、ムカデ退治によって害をなした鯉が怨みに思って仕返しをしようとするが、やっつけられてしまうのである。龍神丸はムカデを退治した刀で、それを欲しがる一群が絡むのである。

釣家の家老夫婦の亀鶴さんと門之助さんがきっちりと釣家の格を表した。愛之助さんは六役もやらなくても良かったように思う。通し狂言としての話しを煮詰めることが肝腎と思う。

最期の鯉退治が充分見せ場として盛り上がった。よく解らないが、せっかくだから一緒に盛り上がらなくては損々という感じで楽しませてもらった。鯉さんも愛之助さんもご苦労さんである。

 

明治座5月花形歌舞伎『男の花道』『あんまと泥棒』

『男の花道』は、映画で、長谷川一夫さんと古川緑波さんのコンビで大当たりしているが、残念ながら映画は見ていない。お二人の『家光と彦左』は見ていて面白いと思ったのでどこかで出会いたいと思って居る。( 『三千両初春駒曳』から映画『家光と彦左』 )

筋書によると、 長谷川一夫さんが『男の花道』を舞台化されたとき三世加賀屋歌右衛門を長谷川一夫さん、医者土生玄碩(はぶげんせき)を二代目猿之助さんが演じられている。猿之助さんは4月には、名古屋中日劇場で、『雪之丞変化』もされ、さらに『あんまと泥棒』は十七代目勘三郎さんと長谷川一夫さんが組まれている。この『あんまと泥棒』は先代中車さんと先代段四郎さんが、ラジオ放送で組まれたそうで澤瀉屋にとっても縁のある作品ということになる。

猿之助さんの中には、かつての時代劇映画が歌舞伎から流れそれが舞台化され、それをまた歌舞伎にして継承するのも今ではないかと思われているようである。竹三郎さんが、長谷川一夫さんからの秘伝を教わっており、それを埋もれさせるのは勿体ないとの想いがある。

『男の花道』は、三代目加賀谷歌右衛門(猿之助)が上方から江戸の中村座に出るため出立するが、眼の病で歌右衛門は役者として続けられないとの絶望の中で、眼科医土生玄碩(中車)に出会い治してもらう。もし先生から来て欲しいという時はいついかなる時も参上しますと約束する。その約束通り、玄碩の手紙が届き、玄碩の窮地を救うという筋である。興味があったのは、どのような時に玄碩の手紙が届くのかということであった。

『櫓お七』の梯子を登るところであった。猿之助さんの人形振りをたっぷり見せられたあとである。その前の、失明前の歌右衛門が、眼の見えない役を稽古したりと、舞台ならではの歌舞伎の実演があるのが楽しい。そして、歌右衛門のお客さんにしばしの猶予をお願いするところが、現実の舞台のお客さんに参加してもらうという手法へと移る。舞台の実感をそのまま、芝居の中に滑り込ませるのである。そして、男の約束を果たし、そこでまた歌右衛門であり猿之助さんの舞いを見せる。

歌右衛門と玄碩がそれぞれ、役者としての力量と誇りを見せることで、眼科医としての腕と誇りを見せることで、歌舞伎としての厚みが出た。中車さんの玄碩は、無理のない演技で意思を貫き、これまた武士の見栄を押し付ける田辺嘉右衛門の愛之助さんに、「今舞台中だぞ。芝居を大事にする歌右衛門がそれを捨てて来るかな。」の言葉に、自分の軽率さを悔やむ。それを腹におさめ待つところも良い。苛め役の愛之助さんの自分が負けた時のさっぱりとした潔さが愛之助さんの愛嬌である。秀太郎さんの座敷の取り仕切りもいつも軽くそれでいてリアルで手堅い。

弘太郎さんの按摩に一つ学んだことがある。旅籠の畳の縁を片足でスーッと触りながら移動するのである。なるほど、今まで気がつかなかった。亀鶴さんの少し襟元を崩しての出が良い。玄碩に食ってかかりながら、歌右衛門の治療に土下座して頼んだり、歌右衛門の包帯を取る時心配でまともに見られず俯いていたり、一つの役に仕上げている。壱太郎さんの鼓も良い。男女蔵さんらお馴染みの方々が円滑に納まっている。

『あんまと泥棒』は、中車さんのあんま秀の市と猿之助さんの泥棒権太郎である。二人芝居の台詞劇である。あんまのところに泥棒が入り、泥棒があんまに意見されるのである。中車さんにはポーカーフェイスとは何ぞやを思い起こして頂きたい。この役をどう工夫しようかという力が見えすぎる。泥棒権太郎に向かっているのではなく、猿之助さんの芸歴に挑んでいる。そして、映像で期待される、香川照之になっている。とんまな泥棒があんまに騙されてお金まで投げていくのである。私なら投げない。どうみてもくせのあるあんまがずーっとそこにいるのである。ひとくせもふたくせもあっても、相手の気の許す愛嬌が必要である。全然気が許せない。

くせのある役はお手の物であるがゆえに、ただの人の情けで倖せに暮らしている按摩さんに重心をかけて、では一寸くせのあるほうをと重心を少し移してとの変化が欲しい。

お二人の軽妙なやり取りを期待したが、演技の上手さはわかるが、それぞれの芸歴が邪魔をした。

原作は村上元三さんで、初演は明治座で、あんまの勘三郎(十七代目)さんと富十郎(五代目)さんである。

映画の中で歌舞伎が出てくるものの一つに、『お役者文七捕り物帖 蜘蛛の巣屋敷』がある。役者でありながら、勘当された錦之助さんの文七が、その実父でもある時蔵(三代目)さんを助けるのであるが、そこで演じられるのが時蔵さんの『女暫』である。この年に時蔵さんは亡くなられている。映像でお目にかかれた。

庶民に愛された時代劇を、歌舞伎として復活させようとする猿之助さんの試みは、大衆文化の継承の一つの形として心強い試みである。