映画『江戸っ子繁盛記』

映画『江戸っ子繁盛記』は『宮本武蔵』の脚本も手がけた成澤昌茂さんである。『芝浜』『魚屋宗五郎』『番町皿屋敷』の三つを組み合わせた作品で、魚屋勝五郎(萬屋錦之介)が三つの世界を生きてしまうという繁盛ぶりである。

『魚屋宗五郎』は、歌舞伎では『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』のなかに『魚屋宗五郎』があり、上演も『魚屋宗五郎』が主である。こちらは、宗五郎の妹のお蔦が磯部のお殿様の愛妾となっていて、横恋慕の家来の策略でお殿様に斬られてしまうのである。

映画のほうでは、魚屋勝五郎(萬屋錦之介)は、時間を間違えて誰もいない早朝の浜で、財布を拾い百両を手にするが、それが夢で、その後はお酒も絶ち、真面目に働くのである。気にかかるのは、しばらく顔を見せない妹・お菊(小林千登勢)のことである。お菊は青山播磨(萬屋錦之介)に見初められ奉公に上がっているのである。勝五郎の夢の中に現れ、青山播磨のことは恨まないで下さいなどと言ったりする。

見ているほうも、このお菊さんはどうなるのであろうかと気になるし、映画ではどういう展開になるか楽しみである。錦之介さんの、一心太助ではない、貧乏な魚屋勝五郎が上手いのである。お金を拾って長屋の連中とお酒を飲み酔っぱらう所もいい。1961年同年の先に『宮本武蔵』を公開しているから、役の幅が出来てもいる。なかなか芸が細かい。娯楽映画でありながらそのあたりも楽しませてくれる。

そしてお菊のこともなかなか出て来ないのが客を引っ張るこつである。お菊が亡霊となって勝五郎と女房・お浜(長谷川裕見子)の前に現れ消えてしまう。お屋敷から、お菊が死んだという知らせが入る。遺体は無いという。長屋の連中は、勝五郎に同情し長屋中のお酒を持ってきて飲ませる。ここからが、『魚屋宗五郎』の酔いっぷりとなり、播磨に、真相を直接聞きに行く。播磨は静かに事の次第を話す。

青山家は三河の出で、徳川家直参の旗本である。ところが、天下泰平の世なれば、無用の存在で何かとはじかれる。面白くない播磨は町奴との喧嘩に明け暮れ、その心を癒してくれるのが、お菊であった。将軍家より、高麗皿が拝領され、この皿で後日もてなすようにと言われる。役人が皿を確かめにきて開けてみると一枚割れている。仕組まれたのである。お菊は主人の責任になってはならぬと自分が割ったと主張し、播磨も仕方なく斬らざるおえない。お菊は切られ苦しみつつ井戸に落ちてしまう。

播磨は、黙っていても潰されることはわかっているので、勝五郎に自分は何れ菊のもとへ行くと告げる。勝五郎は、二人の深い仲を知り納得する。播磨は、幕府が取締りに出るであろう、町奴と旗本の争いに飛び込んでいき死を選ぶのである。

勝五郎夫婦は二人を弔う。ある日大家が顔を出し、かつて勝五郎がお金を拾ったのは夢でないことを伝え、目出度し目出度しである。

三つの話しを上手くまとめ、錦之介さんの魚屋勝五郎も良く、すっきりした娯楽映画になっていた。監督はマキノ雅弘監督である。

『江戸っ子繁盛記』の錦之介さんを見て、評判の高い『関の彌太ッペ』(1963年)を見る。脚本が成澤昌茂さんで、監督は山下耕作監督である。原作は長谷川伸さんの同名戯曲。なるほどこれも見せてくれる。ひょんなことから幼い娘を助ける。その子は年頃になっても、助けてくれた人のことが忘れられない。しかし、その人は姿、人相も変わり果て、娘に名乗れないのである。娘と分れての何年か後の弥太郎(錦之介)は目も凄味、頬には傷跡がある。お化粧の工夫が上手い。むくげの花を挟んで笠を被ったままの弥太郎と娘・お小夜(十朱幸代)とのシーンは山下監督ならではの情感たっぷりの美しい場面である。<情感溢れる美しさ>の錦之介の映画にレンタル店でなかなか手がのびなかったのであるが、むくげの花をぼかし、弥太郎のやるせなさが伝わり、甘味料の甘さはなかった。最後の弥太郎の別れの挨拶の言葉でお小夜はこの人だと気がつくのであるが、弥太郎の姿はない。

萬屋錦之介(改名の時期が記憶できないので、萬屋錦之介に統一させてもらいます)さんなどの映画を見ていて、、役柄の幅も広がり演技の工夫と実力も備わるので、新しい分野の映画に挑戦したいという気持ちが解る。

『孤剣は折れず 月影一刀流』(原作・柴田錬三郎/脚本・成澤昌茂/監督・佐々木康 1961年)は鶴田浩二さんの時代劇であるが、予想に反して、時代劇も悪くない。見ていない<次郎長物>も見てみようと思った。

成澤昌茂さんは、監督もされておられるが、脚本の仕事のほうが圧倒的に多く、ジャンルが広い。高峰秀子さんと芥川比呂志さんの『雁』(森鴎外原作・豊田四郎監督)は好きな映画であるが、これも成澤さんの脚本だったのである。どうなるのか、期待感をもたせ、最後は悲恋でも、ストンと納得させてくれるところが上手いかただと思う。