映画監督 ☆川島雄三☆ 『青べか物語』『縞の背広の親分衆』

森繁久彌さんが川島監督の作品で出演されているのは、川島監督が松竹、日活、東宝(東京映画)と移られた東宝作品である。『暖簾』(映画 『暖簾』)『グラマ島の誘惑』『島の背広の親分衆』『青べか物語』『喜劇・とんかつ一代』である。『グラマ島の誘惑』だけを見残してしまった。

『島の背広の親分衆』『喜劇・とんかつ一代』は喜劇である。『青べか物語』は山本周五郎さん原作の映画化でやっと見ることができた。千葉県浦安町(現浦安市)に住んだことのある山本さんがその町のことを書き、映画になったというので、浦安の人々は映画館に集まった。しかし、これは浦安ではないといって立ち去った人が多かったという映画である。地下鉄東西線の浦安から『青べか物語』の先生が住んで居たという蒸気河岸を歩いたことがあるが、その面影はない。浦安市郷土博物館のほうに、移築された舟宿や民家が<浦安の町>として残されていて、海苔や貝の採取で活躍した<べか舟>や漁の道具も展示されている。山本周五郎さんがよくいった居酒屋などもある。

『青べか物語』は、少し精神的に疲れた小説家がふらっとバスでこの町に降りるのである。役柄からして、森繁さんは町の人々の聞き役である。大きなリアクションはない。この町の人々の生命力溢れる饒舌と、地域の出来事の些細なことから私的なことまでに関心を示す活力に先生は、旅人として少し係り再び去っていく。精神的疲労の回復になったのかどうかは判らない。この町は先生にとって、時には不快でもあり、困った現象でもあり、お節介でもあった。町の人々は、固定化した見方に新しい見方を求めて先生に自分の心の底にある想いを話す。間借りしている夫婦。妻は足が不自由でそれを献身的に介助する夫。乞食をして赤ん坊の妹を育てる少女。古くなった汽船を川に浮かべそこに住む元船長。この船長の話す恋物語の風景は、撮影の岡崎宏三さんの力の入ったところであろう。猥雑な町の風景とは対象的である。

川島監督は「印象派でやろう」といったそうだ。始まりは航空映像と浦安を紹介する森繁さんのナレーションから入る。<青べか>は、青く塗られたべか舟のことで、先ず先生はこの<青べか>を押し付けられ買う事となる。この舟に横たわり本を読み、昼寝をしている間に海の干満によって舟が、元の場所に戻っている長閑さは、ひと時、先生も癒されたようである。先生の去ったあと、先生は、町の人の噂話の種になっているであろうか。

原作・山本周五郎/脚本・新藤兼人/撮影・岡崎宏三/出演・森繁久彌、池内淳子、左幸子、乙羽信子、フランキー堺、山茶花究、東野英次郎、中村メイ子、加藤武、左卜全、桂小金治

『縞の背広の親分衆』は、タイトルから森繁さんの浪花節調の歌が流れる。仁義を切る時、森の石松の末裔と語る。マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』を見ている人はニヤリとする。この映画での森繁さんの森の石松は追随を許さぬくらいのできである。

亡くなった兄貴分の親分の女房の淡島千景さんに向かって仁義を切るのであるが、それが長いのである。川島監督が色々考えて長くしたのであろう。所々、クス、クスとしながら聞いていた。それに対し、返す淡島さんの仁義の切りかたもふわり花がある。この映画のセットはバックが絵であったりしてあれあれと思ったがそれほど重要な問題でもない。役者さんの動きを見せる映画である。高速道路建設のため、ヤクザの信仰しているお狸様の社を取り除けば道路は真っ直ぐに建設され、迂回しなくて済むので、それを退ける退けないの話がからむ。

森繁さん側が、フランキー堺さんに桂小金治さん、淡島さん。反対側が、有島一郎さん、西村晃さん、ジェリー藤尾さん。淡島さんの義理の娘に団令子さんで、この人は独自の動きをする。その交差の中で、よく皆さん動き回る。筋よりも、役者さんがどう動くのか見ているのが楽しい。フランキー堺さんの小物の取り扱いかたが楽しい。川島監督は、身体に音楽性のある人を使うのが上手で、喜劇には、それが必要条件と考えられていたように思う。各自のリズム感を科白や動きで引き出し違う人と組み合わせ、その間合やフェイントの掛け合いで見る者に可笑しさを伝導していく。さらに、繰り返しの可笑しさ。その背景に高度成長の社会の流れが庶民の生活の中に入り込むと社会派であれば、亀裂を描くが、川島監督はあえてそれを、笑いにしてしまう。

だから、ヤクザという設定でも、恰好よくないのである。殺したと思って海外に逃亡し、隠れつつ帰ってきて見れば、殺していたはずの相手は、道路公団の副総裁になっていたりする。あれっ、道路公団のトップは<総裁>と呼ぶのかと、今まで気にしなかった事が気になる。多少もめてくれた方が予算が取れると利用されたりもする。その辺のパロディ化も笑える。喜劇は何かがあって笑うのであるから、これもそのうちの一つなのかと匂わせてくれなければ、ただのドタバタ劇である。笑いの中にはその人の何かに向かう一生懸命さが含まれる。

森繁さんは、姉さんの淡島さんを助ける為に一生懸命で、フランキー堺さんは、団さんの心を掴むために一生懸命である。あちら様は儲けることに一生懸命で、どちらさまも大義名分はおまけである。森繁さん、フランキー堺さん、淡島さんが縞柄の背広とスーツで、兄貴分の親分のお墓にお参りするのが、映画のタイトルを裏切らない。

原作・八住利雄/脚本・柳沢類寿/撮影・岡崎宏三/出演・森繁久彌、フランキー堺、淡島千景、団令子、有島一郎、桂小金冶、ジェリー藤尾、藤間紫、西村晃、渥美清

 

 

映画監督 ☆川島雄三☆  『銀座二十四帖』

川島雄三監督特集を池袋の新文芸座で上映している。先週は時間が取れず悔しい想いをしたので、今週は通い詰めである。2本立てなのでこれまた嬉しい限りである。<喜劇>から<夜の世界>から<男女の超難解な色模様>から<町の活写>から、様々なから、から、からが、川島流に撮って行く。粘つく情もさらりと流し、流す涙も意地に変え、気障な旅人関所を通し、素人離れの歌と語りに色を添え、俯瞰で写す町にうごめく人間模様の出来上がり。

『銀座二十四帖』

空から銀座を写す。タイトル画の時から、森繁久彌さんの「銀座の雀」の歌が流れる。それが郷愁をさそう声と歌い方である。ところがそれが終わると、森繁さんのナレーションが入る。「素人ばなれした歌をお聴かせして・・・」とか何んとか、そして銀座の説明に入るが歌とは反対に明るさがある。この辺が森繁さんのテクニシャンというか、技である。語りでも自由自在である。「銀座の一晩の電気の消費量が、秋田市の一日分・・・・」。こういうことを何気なく挿入する川島監督の手法。気が付けばいいし、気が付かなければそれもよし。考える時間は与えない。抒情に浸る時間は与えない。今回、川島監督の映画を数本まとめて見て、テンポ、リズム、流れ、動線が面白かった。この「銀座の雀」の挿入歌は、キャバレーでの歌い手が歌い、流しが歌いと数回出てくるが、歌われるのは、この曲だけである。最初に印象づけておいて、あとは映画の流れの一部として使うのであるが、最初にインプットされているから歌は歌で複線の一つの流れのように錯覚してしまう。こういう歌の挿入効果も初めてである。邪魔せずにスーッと入ってくる。森繁さんの使い方が、森繁さんの上をいく監督の技である。

川島監督自身が、原作から離れ、筋はどうでもよく、銀座を画きたかったとされているが、森繁さんは銀座の街の風景のみのナレーションで、登場人物の心情には入ってこない。森繁さんのナレーションの部分だけを切り取って写せば昭和30年代の銀座の街のドキュメンタリー映画になるかもしれない。では映画はどんな話かというと、ミステリーの部分を設定している。ある美しいご夫人(月丘夢路)が、自分が少女時代に描いてもらった肖像画を他の売り物の絵と一緒に画廊に展示するのである。<G・M>とイニシャルがあり 、夫人はその人の記憶がはっきりしないが、淡い恋心を抱いたひとのようである。その絵を巡って、銀座の悪を叩き出そうとする花屋の主人(三橋達也)が動き出す。花屋は自分の知っている人とその絵を描いた人が同一人物なのかどうかも知りたいのである。次第にその絵を描いた人物の詳細が判ってくるのである。

日活のトレードマークのアクション映画の要素を入れつつ、大阪から出てきた夫人の姪(北原三枝)のアプリな女性も配し、銀座の昼のデパートの様子や、銀座の夜なども写される。確か衣裳のかたの名前もタイトルに出てきたと思う。このあたりも川島監督のこだわりであろうか。月丘さんの着物姿に魅了され、北原さんのスタイルの良さは映画『風船』の時と同様、斬新なデザインの衣装が長身に映える。浅丘ルリ子さんが、花屋に雇われている事情のある少女たちの一人として出られているが、北原さんと比較すると、こんなに可愛らしい少女と大人の女性との違いであったのかと驚いてしまった。

月丘さんは、父の代からの知り合いが営んでいる料亭に身を寄せている。その料亭の橋のそばで、絵を描いている大阪志郎さんはどういうわけか、銀座の色々なところに姿を現す。刑事さんかなと思わせるが、飄々として刑事らしくないのがまた楽しい。夫人に近づきたくて、自分が描いたのではないのに、自分が描いたとしてマスコミに発表するメチャクチャな画家が阿部徹さん。話はかなりおふざけであるが、時々そこに、銀座紹介の森繁さんの声と映像が加わり、上手く流れていくのである。

一つ残念だったのは、この夫人は嫁ぎ先の鵠沼に娘を残してきていて、その娘に会いにいくのであるが、会うのは湘南の海なのである。鵠沼のその頃の住宅地の方を写しておいて欲しかった。銀座再発見 での、岸田劉生さんの画いた、鵠沼の坂道の風景が写ったかもしれない。<鵠沼>と科白に出てきたとき期待したが残念ながら湘南の海岸だけのロケーションであった。

『銀座二十四帖』の<二十四帖>に関しては、「銀幕の東京」(川本三郎著)のなかで、<銀座八丁に加え、西銀座と東銀座を入れて二十四丁になった拡大された銀座をさしている。>としている。その他、この映画に出て来る場所の詳しいことを知りたいかたは川本さんの本を読まれ参考にされるとよい。

原作・井上友一郎/脚本・柳沢類寿/撮影・横山寛/出演・月丘夢路、三橋達也、河津清三郎、北原三枝、大阪志郎、阿部徹、岡田真澄、浅丘ルリ子、芦田伸介

銀座4丁目の三原橋地下に昨年(2013年)3月31日まで「銀座シネパトス名画座」がありました。その最終章の企画として、<銀幕の銀座 懐かしの風景とスターたち>と題し上映してくれ、最後まで楽しませてもらいました。その時に見た映画について書いてありますので興味があればクリックしてみてください。

映画館「銀座シネパトス」有終の美 (1) 映画館「銀座シネパトス」有終の美(2) 映画館「銀座シネパトス」有終の美(3) 映画館「銀座シネパトス」有終の美(4) 映画館「銀座シネパトス」有終の美(5) 映画館「銀座シネパトス」有終の美(6) 映画館「銀座シネパトス」有終の美(7) 映画館「銀座シネパトス」有終の美(8) 映画館「銀座シネパトス」有終の美(9) 映画館「銀座シネパトス」有終の美(10)

 

監督歌舞伎通 映画『唄祭り 江戸っ子金さん捕り物帖』

DVDのタイトルには、<美空ひばり 唄祭り 江戸っ子金さん捕り物帖>となっているが、ひばりさんは控えめである。映画名のタイトルに<美空ひばり>はない。川田晴久さんが軸として動き唄いまくる。気楽に見ていたら、あれあれあれと歌舞伎に関係する場面が出て来る。

先ず、芝居小屋での芝居が『児雷也』である。宙乗りもあり、舞台正面で宙乗りで新年の挨拶をしていたら、その役者さんが殺されてしまう。川田晴久さんは銀次といい、スリである。銀次が頂戴した財布には三人の名前が書かれていている紙が入っていて、その一人が殺された役者である。イナセに町歩きをしている遠山の金さんの若山富三郎さんは、銀次が情報集めとして使えるとし、岡っ引きに取り立てる。銀次が手にした十手が普通のものより大きい。歌舞伎の『毛抜』や『矢の根』に出てくる物をもじっているのである。     歌舞伎座 『團菊祭五月大歌舞伎』 (昼の部 2)  歌舞伎座 『團菊祭五月大歌舞伎』 (夜の部 1)

ひばりさんは芝居小屋の太夫で舞台で舞い唄う。ひばりさんは勘が抜群なのであろう。こういう場面も上手い下手を気にせずに楽しませてくれる。娯楽ものの必須条件である。遠山の金さんはこの太夫には裏に何かあると目星をつける。

岡っ引きの銀次が嗅ぎまわるので、銀次は悪人に連れ去られこれ以上深い入りするなと脅され返される。その場所が判らない。遠山の金さんから何とかして思い出せとの言明である。お勝手で妹が口ずさんでいる唄に聞き覚えがあり、何んという唄かと銀次は尋ねる。通い始めた小唄のお師匠さんから習った『吉原雀』と妹が答える。囚われた時、銀次はその唄を耳にしていたのである。長屋の皆でその師匠の所へ弟子入りする。そして銀次は外で様子をうかがう。この場面の『吉原雀』がしっかり嬉しくなる長さなのである。歌舞伎舞踊として『吉原雀』は人気演目である。

「その手で深みへ浜千鳥 通いなれたる土手八丁 口八丁に乗せられて 冲の鷗の二挺立(にちょうだ)ち 三挺立ち 素見(すけん)ぞめきは椋鳥(むくどり)の 群れつつ啄木鳥(きつつき)格子先(こうしさき) 叩く水鶏(くいな)の口まめ鳥に 孔雀(くじゃく)ぞめきで目白押し 見世清掻く(みせすががき)のてんてつとん さっさ押せ押せえ」

師匠のところには、銀次を連れさってきた男がいたが殺されてしまう。色々調べていくと、太夫は、お取りつぶしになった家のお姫様で、悪人の家老がその恨みを晴らそうとしていたのである。それに対し姫は疑問視し始める。悪人は捕まり、遠山の金さんの粋な裁きで姫と側近の若侍は旅へでる。

監督/冬島泰三、原作/木村重夫、脚本/中山淀次、撮影/河崎喜久三

スタッフの方々は、時代劇に造詣が深いので、歌舞伎関係も頭の中にしっかりあるであろう。楽しんで、この場面はこうしようとか考えられたのではなかろうか。川田晴久さんが出てくれば歌である。ひばりさんは川田さんからエンターテイメントな部分を沢山学ばれている。ただ次第に川田さんに時代の古さが出てきている。他に、嵯峨美智子さん、柳家金語楼さん、堺駿二さん、山茶花究さんも出られている。

時代劇盛んなころは、美術さん、衣裳さん、鬘を扱う床山さんなど、知識と経験が豊富だったであろう。鬘など役者さんの顔に合った物を使われている。

鬘と云えば、泉鏡花の『日本橋』のパンフレットの表紙の玉三郎さんが素敵なので、観劇の先輩に見せたところ、即「鬘の鬢(びん)を抑えているのがいいわね。張り過ぎて無理に若作りにしていないのが好い。」との感想。なるほどそうきますか。こういう答えがポンと即返ってくるので、先輩たちとの話は楽しいのである。

先輩はテレビで『羽衣』を見たらしい。愛之助さん特集だったようだ。孝太郎さんと愛之助さん、玉三郎さんと愛之助さんの二通りを見せたらしい。愛之助さんは羽衣を見つける漁師である。「孝太郎さんの時は愛之助さん元気だけど、玉三郎さんのとき、ははぁーってかしこまっていたわよ。」 笑ってしまう。それだけでどういう雰囲気かわかるのである。「あの箱からドーナツに移せないのよ。見せたくても駄目なのよ。」充分言われている意味はわかります。

その箱から切符を出せよ。その中に入っているんだろ。いえお客さんこの中に入っているわけではないのです。だってその箱からさっきから切符を出しているじゃないか。大好きな『みどりの窓口』(志の輔)を思い出す。

昨日の朝ドラ見た。見た。見てない。あの人九州に行っちゃうのよね。だれ。ほらあの人。そうあの人。主人公の友達のあの人。えーと、ほらよく元気のいい先生役で出ていた。そうあのドラマに出ていたわよね。お父さんが宇津井健で。そうヤクザなのよね。ああ判ったあの人ね。(こんなこと書いていたら際限がない。)

 

光る刀剣 『小鍛冶』『名刀美女丸』

歌舞伎によく家宝の名刀が悪人に盗まれ、それを探すのが一つの話の筋として重要になってくるが、それ位で刀には関心が無かった。ところが、しまなみ海道  四国旅(7)での義経の奉納の刀が歌舞伎座5月の『勧進帳』と重なったり、長唄舞踊『小鍛冶』 と 能『小鍛冶』での小鍛冶宗近から、そのあとで栗田神社、鍛冶神社、相槌稲荷神社を訪ねることも出来た。

さらに思いがけず、京都の大本山本能寺の宝物館大寶殿で、この宗近さんの作った太刀にあえたのである。織田信長さんは目利きのかたであったように思える。<三足の蛙>名の銅の香炉も面白い。麒麟(きりん)の角が一本であったり、中国では奇数が吉とされた時期のものである。千利休に愛された釜師・辻与次郎の作品も美しかった。ゆっくり眺めていたら突然、<『小鍛冶』のモデルである宗近作>の一文が目に飛び込んできた。<『小鍛冶』のモデル>と書かれていなければ、<宗近>と一致しなかったであろう。どこかで想像上の人物と思っていたのである。信長公が所持していたとあり、長さ62.7㎝、反り7分6里で、細くて反り具合が美しい。眺めてその美しさを楽しむような刀である。

鍛冶にも幾つか派があったのであろうか。粟田口派鍛冶が北条時頼に召されて鎌倉に下り鎌倉鍛冶の開拓者になったとある。こういう技術も京から東国に流れてきたのである。

東京代々木に「刀剣博物館」があり、企画展 <祈りのかたち~刀身彫刻と刀装具~> とあり<祈りのかたち>にひかれたが知ったのが遅く行けなかった。

そしてふっと思い出したのが、溝口健二監督の映画『名刀美女丸』である。題名の<美女丸>が娯楽映画のように思え期待していなかったが予想外に面白かったのである。しかし、時間もたち、何が好かったのか忘れてしまったのでレンタルして見た。名刀の名を<美女丸>とした溝口監督の裏の意図も判り、刀鍛冶三条宗近の事も出てきて撮影当時の時代背景も判り、初めて見た時と違う想いが重なった。最初に見た時は、刀打ちの場面が興味深く、その場面が長いのでこういう風に打たれていくのかと興味深く、<美女丸>の意味は単純に、笹枝の力と理解していたのを思い出した。

粗筋は、孤児の清音が侍の小野田小左衛門に助けられ刀鍛冶となっていて、やっと御恩返しの刀を打つことが出来、小左衛門も喜んでその刀を差し殿の護衛にたつ。ところがその刀が肝心な役目の時に折れてしまい、小左衛門は蟄居の身となる。そして、娘・笹枝に執心の侍に殺されてしまう。笹枝は敵のための刀を清音に頼み、精魂込めた刀も出来上がり無事敵を討つのである。その刀が<美女丸>ということである。映画の中で、その刀の名は出てこない。その刀を打つとき、笹枝の生霊が現れ、清音の弟弟子清治と三人でその刀は打たれるのである。その時の笹枝は、透明人間のような手法で現れ、効果的である。そして刀も出来上がり、見事敵討ちが果たされるのである。

最初に見た時、清音の師匠が尊王派に傾倒し、このように複雑にしなくても十分面白いのにと思ったが、そこに当時の時代背景があったのである。この映画が出来上がったのが、昭和20年1月、公開が終戦の8月である。まだ国策の空気があったのである。

物資不足ででフィイルムもなく、タイトルも、映画名、配役、演出だけである。スタッフのタイトルもない。

配役/新生新派 清音(花柳章太郎)、清次(石井寛)、清秀(柳永二郎)、小野田小左衛門(大矢市次郎)、東宝 娘笹枝(山田五十鈴)  これだけの名前である。

師匠の清秀は、刀を打つための志を求め勤王と接触している。そして、三条宗近作の刀を借り受け、清音、清次に見せつつ独白する。自分は宗近に劣らない技がありなが何のための技か、誰のための。心が無い。目当てがない。目当てをくれ俺の心に灯をともしてくれ。自刀するとき、えんじゅ鍛冶(科白からの聞き取り)は、足利のためには刀を打たず、足利を倒すために打った。ここに刀鍛冶の魂があるとして帝のために打てと遺言する。その時、清音は、小野田先生の仇討のためでは駄目ですかと尋ねるとそれでは駄目だと言われる。

清音と清次は刀作りに励むが上手くいかない。弟弟子の清次が云う。「何でもいい、俺はただ立派な刀を作りたい。」 そして、精根も尽き清治は相打ちを使ってくれと頼み倒れてしまう。清音はそのまま仕事を続ける。そこに笹枝の生霊が現れ刀を打つのである。清次も起き上がり打ち始める。これは、映画をみている者にのみ判ることとしている。そこに溝口監督の抵抗がある。大義名分は付け足しである。三人は仇討のための刀を打ったのである。その名が<美女丸>である。

特典映像で新藤兼人監督が、語られている。<映画はロングショットとクローズアップで作られるが、溝口はほとんどがロングショットである。役者と役者のぶつかり合いの中で見える、個々の人格、内容をぶつけ合って見えてくるもの、不思議な情念を描いた監督である。>

刀を打つ場面はドキュメントのようである。この場面だけでも見たかいがある。娯楽性もきちんと踏んでいる。制約を受けているが、きちんと刀鍛冶のことも調べている。 脚本/川口松太郎、撮影/三木滋人。

溝口監督と花柳章太郎さんのエピソードを一つ。衣裳に凝る花柳さんが、舞台『細雪』に出るため、<寄せ水>という能の水干に着る衣裳で、寒中でないと麻糸が揃わないといわれる布を三反作らせた。二反は自分が購入し、残りの一反を溝口監督が購入。ところが、舞台上演前に、映画『雪夫人絵図』で小暮実千代さんに着せたため、花柳さんは溝口監督に抗議したそうである。映像では大きく写り舞台より目をひくであろうし、それを先に着られては抗議するのは当然と思う。それを知ったので『雪夫人絵図』のDVDが安く購入できたので見たが、DVDのパッケージの写真が一番その材質を捉えていた。(早稲田演劇博物館 日活向島と新派映画の時代展資料集より)

えっ! 今話題の本屋大賞受賞の『村上海賊の娘』(和田竜著)に鶴姫さんのことが出てくるんだ。今、押して来ないでくださいな!

 

 

映画 『阿修羅城の瞳』

2000年という事は15年前ということになるが、新橋演舞場で『阿修羅城の瞳』を観ている。記憶に残っているのは、染五郎さんの動きがやはり一番綺麗であったことである。他の出演者は敬称略で、富田靖子、古田新太、江波杏子、加納幸和、平田満、森奈みはる、渡辺いっけい、橋本じゅん・・・。話の入り組んだ芝居で、粗筋を言えといわれると説明がつかず、ただ感覚的には面白い世界であった。その後、DVDのレンタルショップで 映画版『阿修羅城の瞳』があるのを見ていたが、見たいとは思わなかった。ところが明治座の五月歌舞伎を観たら、なぜか見たくなり借りたのである。

こういう世界であったのかと映画だと筋を捉えやすくよくわかった。科白も面白い。舞台と映画の設定は多少違っていると思う。舞台の場合、掴めていて掴めないその空間が魅力の一つでもある。そもそもこの芝居は1987年に<劇団☆新感線>で初演され封印されていたらしい。2003年にも、染五郎さん以外のほかのメンバーを入れ替えて再演している。作者は中島かずきさんで演出はいのうえひでのりさんである。芝居のほうは、劇中歌も入ったように思う。映像で表現出来ない魔の妖しさを歌で観客をいざなったような気がする。

映画のほうは、江戸時代に突然、人の世界に<鬼>が出現し、<人>と<鬼>との死闘が始まる。<鬼>を撲滅させるための組織に、鬼殺しとして恐れられる病葉出門(わくらばいずも)がいた。しかし彼は5年前に少女を殺し、今は四世鶴屋南北一座の役者となっている。芝居の舞台や稽古場面が上手く使われ引き付けられ、病葉出門は歌舞伎役者市川染五郎さんであるゆえに出来る役柄である。<鬼>は、鬼の王でもある<阿修羅>の出現を待っている。<阿修羅>はどういう形で現れるのか。病葉はつばき(宮沢りえ)という美しい娘に出会い縁を感じとる。病葉は、少女・つばき・阿修羅の関係が次第に判明していきながらも、現世には帰れない魔界への橋を渡っていく。つばきとの約束を果たすために。

四世鶴屋南北(小日向文世)は病葉に伝える。おまえとつばきのことは芝居として後世に残すからと。最終的には、病葉とつばきの男と女の話のように思えるが、ここに出てくる四世鶴屋南北さんもまた、芝居という世界で<阿修羅>と一騎打ちを果たすべく<芝居の阿修羅>に取りつかれた人である。

その<芝居の阿修羅>は今どこかの劇場に出現していて、役者さんと一騎打ちをしているかもしれない。現実なのか魔界なのか。もしかして、あなたは今夜、魔界の阿修羅城の瞳に出会うかもしれない。

などと時空を飛んで想像力を喚起してくれる。

監督・滝田洋二郎/原作・中島かずき/脚本・戸田山雅司、川口晴/撮影・柳島克己/出演・市川染五郎、宮沢りえ、樋口可南子、渡部篤郎、小日向文世、内藤剛志

 

映画 『衝動殺人 息子よ』 と 映画 『チョコレートドーナッツ』

映画『衝動殺人 息子よ』と今公開中の映画『チョコレートドーナッツ』は、法律が絡んでくる。

木下恵介監督の『衝動殺人 息子よ』は、小さな幸福の中にいた家族が、息子を「殺すのは誰でもよかった」とする人間に殺されてしまう。息子の父親は、悲嘆の底から這い上がり、被害者遺族の救済はないのかと、同じ被害者遺族を尋ねる。そして殺されたことによるその後の家族の生活の困窮を知り、被害者家族の補償問題としての法律を作ってもらうべき運動を起こすのである。被害者遺族側の人の死をお金に換算することへの心苦しさや、思い出すのも辛い人々の気持ちを伝えつつ、救済の権利を粘り強く静かに伝えていく。この映画も一つの後押しとして、「犯罪被害給付制度」が制定される。

『チョコレートドーナツ』も、実話である。母親の育児放棄で、母親は薬でつかまってしまい、そこに居合わせた住人とそのパートナーが、一人になった少年を引き取り家族として小さな幸福の時間の中にいる。少年はダウン症で、ドーナツとハッピーエンドのお話が大好きである。ただこの少年の新しい保護者はゲイのため、世間がこれを認めようとしないのである。そして法律を操るのも人間であるから、その法律の解釈を使い、この家族は引き裂かれてしまう。何の見返りも求めない新しい家族が法律の枠の外で、心の結びつきでささやかな素晴らしい時間を持っていたのである。

どちらの映画も、マルコ少年の好きなハッピーエンドのおとぎ話ではない。法律が出来ても、心の全てを救うものではないし、法律が全ての愛を守るものではない。だからこそ、法律の一人歩きはよく見定めなくてはならないのである。

『衝動殺人 息子よ』の父親役の若山富三郎さんは、ヤクザ役から被害者の父親役という周囲が驚く転身である。母親役の高峰秀子さんは、この映画で引退される。高峰さんは、復員した池部良さんを再び映画に誘い池部さんの役者復活のきっかけを作っている。ヤクザ映画の役者さんが、その後、性格俳優になられたり、その反対だったり、池部さんのお父さんが復帰の時に言われたという「買われたら売る」が的を射ている。「売る」からには、つまらぬ包装紙でおおわれていないかを見極めるのは、商品を買うこちらのお客である。包装紙の好きな役者さんもいますし。

近頃、昭和の映画が、レンタルで多く見れるようになり、懐かしさではなく、一人の監督さんや役者さんの流れを検討したり、今の映画と比較できるのも嬉しいことである。そして、この映画にこの役者さんも出ていたのだと気がつくのも楽しい。

『衝動殺人 息子よ』には、多くの役者さんが出られていた。

出演/若山富三郎、高峰秀子、田中健、尾藤イサオ、高林早苗、大竹しのぶ、高村高廣、藤田まこと、近藤正臣、吉永小百合、加藤剛・・・・

監督・木下恵介/原作・佐藤秀郎/脚本・木下恵介、砂田量爾/撮影・岡崎宏三/音楽・木下忠司

 

映画 『昭和残侠伝』

池部良さんの『乾いた花』が出てくれば、自ずと知れた『昭和残侠伝』である。快楽亭ブラックさんが、「花」と「風」の名コンビ、花田秀次郎(高倉健)と風間重吉(池部良)の役名がそろうのは、4作目からと言われている。池部さんは、この作品に参加するとき、「入墨は入れないこと」「ポスターに写真を入れないで、字を小さくすること」「毎回死でしまうこと」と条件をだされたので、役名の固定化が不確定になったのかもしれない。

シリーズ第七作「死んで貰います」についてブラックさんは 「最後に秀次郎と風間が殴り込みに行かなければ、まるで川口松太郎の人情小説の世界。新派の舞台が似合いそうな物語に、藤純子が情感たっぷりに一目惚れしたした男を忘れられない芸者を好演、粋でイナセなマキノ美学が映画の隅まで生きていてシリーズ最高傑作となった」 とされるが、賛成である。ただ一つブラックさん間違っていました。秀次郎の義理の母は、三益愛子さんではなく、荒木道子さんである。ブラックさんは、幼稚園生の頃に、長谷川一夫さんとひばりさんの『銭形平次』を観ていて、今でも忘れられないそうであるから、どれだけの数の映画が頭の中にあることか。この位の間違いは些細な事であるが、荒木道子さんの理性ある義理の母親役もこの映画の情の部分に一役かっておられる。

秀次郎は料理屋の跡取りなのであるが、家を出てヤクザとなっている。風間はヤクザであったのが、この料理屋の主人に助けられ堅気の板前になって店を助けている。風間は女将さんが目が見えないので、秀次郎の素性を隠し板前として店に入れ、芸者の幾太郎(藤純子)と夫婦にさせようと何かと面倒をみる。女将さんは秀次郎が人の道を外れたのは自分のせいと思っている。このあたりの人間関係のそれぞれの科白が、上手く作られている。店の主人と娘は亡くなり、その婿が相場に手をだし店をだまし取られてしまう。そこで秀次郎と風間の出番となる。

ことによるとしらけてしまうような科白が、そうはならずいい場面に作りあげられている。風間が、秀次郎と幾太郎をからかったり、秀次郎を諭したりしながら、最後は秀次郎とともに同じ道をゆく。そこまでを、一本気の秀次郎を軸に上手く設定されているし、池部さんがよく支えている。マキノ雅弘監督の映画の中には、必要以上に女優さんを畳にオヨヨヨと身を崩して泣かせたりして、その演出に賛成できないものもある。ところが、幾太郎が秀次郎が殺されそうになり、秀次郎をかばい相手の前に体を張り理路整然という科白は溜飲を下げる。あり得ない架空のヤクザの世界のお話を様式化しているのである。それぞれの間がうまく流れていく。

一作目の殴り込みに行くとき、唄が一番だけの予定が二番も入れることになり、佐伯清監督が「歌謡映画じゃないんだぞ」と怒り、「お前らで勝手に撮れ」といわれ、助監督だった降旗康男監督が撮影所の裏の草原でフットライトを一つ当てるだけで撮ったらそれがかえって上手くいったというのも面白い話である。

シリーズのうち二作ほど観たが、このシリーズは池部さんと高倉さんのコンビあっての作品である。池部さんの経験した年数と高倉さんの年数が、役のうえからもバランスよく投影されている。二人が目を合わせ主題歌二番までで、一緒ではあるが二人がそれぞれの自分の行く道を見つめている。そこがまたいいのである。

このシリーズ、藤純子(富司)さんが出ている作品はあと二作ある。「血染め唐獅子」と「唐獅子仁義」である。「血染め唐獅子」は、高倉さんと池部さんが友人で敵対する組に入っている。藤さんは、高倉さんの許嫁で池部さんの妹である。藤さんは居酒屋で働き絣の着物で、この映画では高倉さんが明るい笑顔を見せるのが珍しい。神田の江戸っ子という事もあるのか。池部 さんは破門されるので、一緒に殴り込みとなる。「唐獅子仁義」は、高倉さんはかつて池部さんの腕を切り落としている。その池部さんの女房で芸者をして支えているのが藤さんである。池部さんは腕を切られても、高倉さんを男気のあるやつと思っている。殴り込みに行くとき、高倉さんは池部さんのドスを右手に手ぬぐいで結び付けてやる。見つめ合う。この高倉さんと池部さんの見つめ合いを期待して見ている方も多かったことであろう。日本人の好むところである。口には出さずとも、目と目で分かり合う。

「死んで貰います」がやはり良い。高倉さん、藤さん、池部さんの役どころがはっきりしていて、それぞれがその役柄を楽しませてくれる。

『昭和残侠伝』のこの三作の監督はマキノ雅弘監督である。一作目の池部さんの背広での登場は『乾いた花』を意識されているのかも。そして世話役の三遊亭円生さんの高座と同じ語り口での科白が楽しい。あの語りで科白になっている。監督は佐伯清監督。

映画 『乾いた花』

【池部良の世界展】 (早稲田大学演劇博物館) で、『乾いた花』に早く出会いたいものであると書いたが、1年半近くたっての出会いである。池部良さんの多少希望があるのかもしれないが、やはりじわじわ締め付ける虚無感が凄い。時に、ニヒルではない自然の笑みを浮かべる。しかし、何も望まない虚無の眼になっていく。その日常にふっと近づきながら離れていく過程もいい。

賭けることによってしか、自分の存在価値を見出せない男女が賭場で出会う。男は、ヤクザで人を殺し刑務所から出てきたばかりである。女の正体は最後まで解らない。この二人の男女の視線の中にもう一人何を考えているのか解らない薬をやっているであろう男の視線が絡まる。絡まる男に危険を感じているヤクザの男は、女にも注意をうながす。女は忠告を聞き入れているようで聞き入れていない。ヤクザの男は、巡りあわせでまた争う相手ヤクザを殺さなくてはならない。ヤクザの男は、女に自分が人を殺すところを見せる。女は瞬きもせずに見る。ヤクザの男は刑務所で、後から入所した仲間に、女が、絡らまる男に殺されたことを聞く。ヤクザの男の喪失感は、自分が思っていたよりも深かった。

ヤクザの男は、女が殺されるかもしれない。絡まる男に意味もなく近づく女を予想していた。それを食い止めるため、自分が人を殺すところを見せたのである。ここまで行っても女の望むようなものは何もないぞという事を示したのである。しかし、それが女の行動を止める力とはならなかった。

女の加賀まりこさんの衣装は、おしゃれできちんと仕立てられたものを着ている。そのまま高級レストランで食事ができるスタイルである。二人が賭場へ行く時待ち合わせるのが夜の教会の前で、女はスポーツカーで来る。それを待つヤクザの男の池部良さんは、教会の階段を降り、スポーツカーに乗る。外から見るダンディズムに反して、ふたりは埋めることの出来ない虚無を抱え込んでいる役柄である。絡む男は藤木孝さんで、この男の視線を凝視する池部さんの視線は今までの映画で見せたことのない暗い視線である。

この映画を引き受ける前に池部さんは舞台「敦煌」を、1週間で降板している。マスコミメディアは<映画で人気が少々落ち目のスターが舞台で失敗>と書き立てる。篠田正浩監督は、このような状況のとき、池部さんに映画出演依頼をする。テレビのインタビュウーで篠田監督は、その時のことを話されている。池部さんからどうして僕なのかと尋ねられ、小津監督は「早春」を、渋谷監督は「現代人」を、豊田監督は「雪国」「暗夜行路」を、木下監督は「破戒」を、池部さんで撮られている。下手だったらだれも池部さんを呼ばないでしょうと言われたと。池部さんはとても嬉しそうだったと付け加えられた。

この映画は、映倫に成人指定され、松竹は8か月間公開を見送るが、公開されると評判となる。この映画を観ると、脇であっても<池部良>という俳優の何かを見落としていたのではないかと思えてくる。

篠田監督は、キャスティングしてしまえば何もしませんと言われている。『乾いた花』の池部さんを引き出したのは篠田監督である。しかし篠田監督は細かい演出はしないと言われる。確かにあの池部さんの虚無感は、ああですこうです言われて出てくるものではないのかもしれない。その人の何処かにしまい込んでいたものが、表出しただけなのかも。

親分役の宮口精二さんと東野英治郎さんの凄味はないが、お互いを探り合いながら上手く立ち回り、子分には負担をしいる設定は、『仁義なき戦い』に受け継がれた感じがする。

『乾いた花』  監督・篠田正浩/原作・石原慎太郎/脚本・馬場当、篠田正浩/撮影・小杉正雄/出演・池部良、加賀まりこ、原知佐子、藤木孝、杉浦直樹、宮口精二、東野英治郎

 

映画 『暖簾』

山崎豊子さん原作の映画化である。川島雄三監督と、森繁久彌さんの組み合わせである。森繁さんは『夫婦善哉』のぼんぼんではなく、丁稚あがりの叩き上げの商人である。

ある日、昆布屋を営んでいる浪花屋利兵衛(中村鴈治郎)の後を付けてくる少年がいる。坂道があり、織田作さんの原作ではないが、織田作さんの大阪を彷彿とさせる。その少年は淡路島から大坂で働きたいと出てきた少年で、利兵衛も淡路島出身でなんとか使って貰えることとなる。店に連れて来られ、店の裏奥へ暖簾を頭で開け少年・五平は主人に<暖簾は大坂商人の魂>で、何んということをするのかと怒られる。

五平(森繁久彌)は身を粉にして働き、暖簾分けをして貰う。それは良かったのであるが、五平が結婚しようと思っていた同じ店の女中お松(乙羽信子)とは一緒になれず、利兵衛の姪のお千代(山田五十鈴)を押し付けられる。お松は五平を怒らしたらすぐ謝るのであるが、お千代は気が強く謝るどころではない。しかし、商売にかけてはしっかり者である。

建てた工場が伊勢湾台風で駄目になり資金繰りに困り本家に行くが、利兵衛はすでにこの世を去り、女将さん(浪花千枝子)にこっぴどく意見され助けてもらえない。その時、お千代は暖簾を担保に、五平をもう一回銀行に行かせるのである。

太平洋戦争があり、昆布は国の統制下に置かれてしまう。長男は戦死して、いい加減な次男・孝平(森繁久彌)が戦地から帰って来る。いい加減さは、昔のやり方に捉われないということでもあり、次々と新しいやり方を考えだし、店を建て直し、五平はそれを見届けて亡くなる。

森繁さんの演じ方、乙羽さんと山田さん二人の女優さんの描き方の違い、後半に入ってからの二役の森繁さんなど、筋とからめて楽しめる作品である。主人の中村鴈治郎さんも大阪商人そのもので、さらにその女将さんの浪花さんが手ごわくていい味である。

このレンタルDVDには、特典として、撮影の岡崎宏三さんが撮影現場を映した映像がついている。音声はないが、貴重な映像である。川島監督が細かい演技をつけられているのには驚いた。森繁さんが主人のお墓参りをする場面で、乙羽さんが先に来ていて再会するのであるが、その時、森繁さんが乙羽さんの首もとの汗を拭いてあげる。それが、前から後ろからとしつこい演技で、例の森繁さんの女好きの演技の延長でご自分での工夫かと思ったら、川島監督が実際にされて演技指導されていた。役者さんのそばに寄る映像も多々あり、川島監督は細かく演技をつける監督さんなのかと、ちょっと意外であった。この細かさで、監督ならではの女性像を造っていったのであろうか。

お松に会って、男心がよみがえったという感じをあらわしたのであろうが、言われなくても森繁さんは何か考えたような気がするが、その前に川島監督は、こちらの言い分を伝えたのかもしれない。こういう駆け引きも想像できて、嬉しい特典であった。録画と違い、こういう特典があることもあるのが、レンタルの楽しみでもある。

その演技指導は、違う監督さんと違う役者さんの場合と正反対のやり取りであったことを知ったことでも興味深い事であった。その映画とは、やっと観ることができた『乾いた花』である。

そして、『暖簾』の科白を大阪弁に直したのが藤本義一さんで『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』を書かれ本にされている。

『暖簾』  監督・川島雄三/原作・山崎豊子/劇化・菊田一夫/脚本・八住利雄、川島雄三/撮影・岡崎宏三/出演・森繁久彌、山田五十鈴、乙羽信子、浪花千枝子、中村鴈治郎

 

 

映画 『わが町』

映画『わが町』を見直したら観ていたのである。この映画を観た時、大阪の路地長屋の明治から昭和の終戦までの、ある男の一代記。親子三代の人情話。明治から昭和にかけて変らない大坂の庶民生活の活写。この主人公の生きる糧としている信条がよくわからない。さすが、川島監督、大坂天王寺の裏長屋を舞台にそこに住む人々の心情を<ターやん>を軸に丁寧に描いている。こんなところであった。辰巳柳太郎さん演じる<ターやん>がよくわからなかった。その押しつけが。

『マニラ瑞穂記』の舞台を観、フィリピンの<ベンゲット道路工事>の事を知って見直して観ると、<ターやん>が、<ベンゲットの他あやん>であることがやっと印象づけられた。映画の始めに 「比律賓ベンゲット道路開整工事絵図」 と書いたアルバムのようなものが大写しとなり、解説が入る。アメリカはマニラとバギオを結ぶ道路を造る。その途中のベンゲット山腹が難関で、フィリピン、中国、アメリカ等の1200名が1日一人は亡くなるという惨状でみんな逃げ出してしまう。そこで、明治36年秋、1200名の日本人労働者がカリフォルニアを開拓した不屈の精神力がかわれて海を渡るのである。その中に、佐渡島他吉がいたのである。ところが、労働条件は約束と違い次々と事故と病で亡くなる。途中帰るにも旅費がない。仕方なく、ここで挫けては亡くなった者にすまないの一念に団結し、仕事を成し遂げるのである。

開通してみると、1500名の労働者のうち、700名近くが亡くなっていた。開通すると、失業者である。成し遂げたという高揚感と失望から佐渡島他吉は、マニラで<ベンゲットの他あやん>として顔を売るが、厄介者として、日本に送り帰されるのである。帰って来てもお金はなし、神戸で車引きをしてお金をため、住んで居た河童(がたろ)路地の長屋に帰って来るのである。

ナレーションで説明されるが、そういうこともあったのかと実態がよくつかめないうちに、観ている者も河童長屋の住民に迎えられるようなものである。<ベンゲットの他あやん>は、日露戦争も勝利し、もう一回マニラに渡り日本人の心意気を見せなければ気が治まらないと、心はマニラである。この気持ちに回りの者は振り回され続ける。

女房のお鶴(南田洋子)は過労で亡くなり、男手で一つで育て上げた娘婿(大坂志郎)に、マニラ行きを進め、婿はマニラでコレラにかかり亡くなり、悲観して娘も子供を残し亡くなってしまう。日本は外地を求め太平洋戦争に突入。敗戦となる。それでも、他あやんは、育てた孫娘(南田洋子)の婿(三橋達也)にもマニラ行きを結婚の条件とする。

他あやんは<ベンゲットの他あやん>として生きる意外に生きる糧がないのである。他あやんの描いているベンゲット道路も、アメリカ人が避暑地に行くための道路であり、ダンスを楽しみに走る車のための道なのである。それを知りながら、他あやんは、自分のなかで理想化している架空のマニラへと、人を押し出していくのである。

そして、この<わが町>も、原作者・織田作之助さんの現実ではない<わが町>である。この小説は立身伝の国策ものとしてとらえられている。ここで原作と映画の照らし合わせは避けるが、この作品は、溝口健二監督が撮ることになっていた。戦時中で、国策を讃えるものにしろとの圧力があり、溝口監督は撮らなかった。それを、温めていて撮ったのが川島雄三監督なのである。

今観ると、<ベンゲットの他あやん>は、アメリカからも、日本からも騙されている男である。それを体験しつつも、他あやんが生きて娘と孫を育ててこれたのは、自分の中にある<ベンゲットの他あやん>の虚像と、架空の<わが町>である。この織田作さんの中の<わが町>を映像化したのが、川島監督である。非論理的なむちゃくちゃな<ベンゲットの他あやん>を受け入れてくれた<わが町>に、川島監督は、織田作さんの<わが町>を造り、織田作さんが批判された作家活動の時期の織田作さんを、その町に解き放ったのである。

ウソも本当も隠し立て出来ない貧乏長屋の住人の生きる狭い<わが町>は、住人ごと織田作さんへ贈った友情の証である。隣りの住む売れない落語家(殿山泰司)。独り者の床屋の息子(小沢昭一)。その母(北林谷栄)。

早くに亡くなってしまう織田作さん。病に犯されていた川島監督は、字も読めず、体一つの「人間はからだを責めて働かな噓や」の信条で生きる<他あやん>を、プラネタリウムの憧れの南十字星の懐のなかで死なせるのである。他あやんにはひと言伝えたい。<今度生まれてくるときは、せっかくの頑強な体を大事にせな、騙されたらあかんで>と。

『わが町』  監督・川島雄三/原作・織田作之助/脚本・八住利雄/撮影・高村倉太郎