前進座 『番町皿屋敷』『文七元結』

前進座五月国立劇場公演である。

『番町皿屋敷』は、平塚市のお菊さんの<塚>と<お墓>を訪ね終えたばかりでの観劇である。さらに、1月には、松竹歌舞伎で歌舞伎座でも上演されている。今回前進座は、『番町皿屋敷』では従来女形を当てて来た役に女優さんを起用した。

お菊には、今村文美さん、青山播磨に嵐芳三郎さん、播磨の伯母に妻倉和子さんである。女形での『番町皿屋敷』は何回か観ていて、さらに1月の芝雀さんが脳裏にのこっているので、始まってしばらくは、女優さんに違和感があった。歌舞伎を最初に観た方は女形のほうが違和感があるであろうが、女形に見慣れてしまうと、女優さんの女の生身がどうも苦手になってしまう。感覚的で説明のしようがないのであるが。お菊が登場した時から潜在意識が作用したが、後半からの播磨のセリフ劇あたりからは芝居に集中できた。

この芝居自体が、少し無理な所もあるのである。皿屋敷伝説を土台にして、純愛にしたて、純愛としてお菊を手打ちにしなくてはならないのである。終演後にトークショーがあり、芳三郎さんは、お菊が手打ちとなる哀れさから、播磨の気持ちの純粋さを感じてもらうのが難しいと言われていた。

殿様と腰元の恋である。お菊は、播磨に妻にすると言われても播磨に縁談の話しもありどこかに信じきれない部分がある。それをお手打ちもあり得る家宝の皿を故意に割ることで、試したのである。そこをお菊の一途さとしている。しかし、自分の純粋な恋ごごろを疑われた播磨の無念さがお菊を手打ちにする。解釈として、単なる播磨のプライドではないかとも考えられる。播磨は最終的には、自分の気持ちを疑われ皿で試されたプライドが許さなかったのではないかとすると、この物語もガラガラと崩れるのである。そして、町奴との喧嘩も播磨のプライドだけの問題であるとなる。そこを、恋にたいしては、純真な一人の男として設定しており、そう思わせるのが難しい。

岡本綺堂さんは、事実が判った時点で、お菊に残りの皿を出させ、播磨はそれを自らの手で割り、お菊に皿の枚数を数えさせる。その部分は、文美さんのお菊は恐れおののき、芳三郎さんの播磨は怒りを静めてもう一度自分のお菊に対する自分の感情を確かめようとしている。このあたりが若いお菊と播磨の感情に写った。

吉右衛門さんと芝雀さんの時は、この時すでに、お互いがお互いの気持ちを読み取り、最後は二人で自分たちの大切な恋を一つ一つ壊していくようであった。

役者さんによって、心の内が違って見えるのが面白い。芳三郎さんは、自分の気持ちを高らかに思い存分語る。お菊の文美さんは納得し静かに手を合わせる。お菊は弁解するセリフはなく、身体で語らなければならない。

お菊の死体は井戸へ投げ込まれ、家宝のお皿を壊した者への成敗と、恋の消えた一人の男の闘争心が残る。純愛だけに、この作品を消化するのは大変である。女優さんにしたことで、また一つの見方が増えたのかもしれない。

萬屋錦之介さん主演の映画『江戸っ子繁盛記』というのがある。これは、『芝浜』『魚屋宗五郎』『番町皿屋敷』の三つを上手く組み合わせたもので、この青山播磨とお菊の関係と播磨がなぜ町奴と喧嘩をするのかの理由がはっきりしていて面白かった。そのことは後日。

人情噺『文七元結』は、これが、前進座の前進座たる芝居の面白さなのかと思った。松竹歌舞伎と前進座の歌舞伎との面白さがそれぞれ違うと言われるのを耳にしてきたが、それが具体的に分らなかった。『文七元結』で初めてこういうところなのかも知れないと感じたのである。

そこに江戸時代の長屋の住人がいる。気持ちの切り替えの必要がない。上手い噺家さんの実写に自然に入り込まされていく流れである。娘・お久が見つからず、左官の長兵衛と女房・お兼は不安の中で喧嘩である。これがいつもの喧嘩と調子が違うのが感じ取れる。お久は父のバクチとお酒から借金でどうすることもできないのを知って自分から吉原の遊女屋佐野槌に身を売ったのである。

佐野槌は長兵衛が仕事をしたお店でもあり、女将さんは事情を知っていて、一年はお久を店には出さないと言ってくれる。娘に母親のことを頼まれ、父親として形無しの長兵衛であるが、涙を流して仕事に励むことを約束する。ここでの長兵衛とお久は、駄目な父親でありながら、その心根は悪くなくお久の気持ちを素直に汲む実直な親子関係を表す。藤川矢之輔さんの長兵衛と本村祐樹さんのお久親子の情愛が伝わる。この場面を、お金を取られて川に身を投げようとする文七に語って聞かせるところは、聞かせどころで、涙が浮かぶ。

文七の忠村臣弥さんと長兵衛の弥之輔さんの川に飛び込むところを止めるやり取りの動きがいい。主人の信用を受けて今は死しか頭にない若者と、散々迷惑を掛けておきながら江戸っ子気質は生きている職人の対比を身体のからみで見せてくれる。

なんでこんなところに選りによって遭遇してしまったのかという、長兵衛の気持ちも、他人ごとではない可笑しさでこちらに跳ね返ってくる。ついに、お久が身を切って作った50両のお金を若者に投げつけて立ち去る。

一晩、長兵衛とお兼はすったもんだである。お兼の河原崎國太郎さんの声が声高にキンキン響かせないのが良い。国太郎さんのお兼が、どこともわからない若者に死ぬというのでお金を渡したと言われても信じられないの怒りに、現場を見ているこちらも、それはもっともだと思わせる。その二人の聞き役が、大家さんの中村梅之助さんである。

しかしその若者は、主人の嵐圭史さんと共に現れる。使い先の屋敷にお金は置き忘れてきていたのである。文七はとお久は夫婦として結ばれることとなり、文七は暖簾分けも許され、元結を切り売りする工夫を話す。商売もうまくいくであろうとハッピーエンドである。庶民感覚と動きが無理な誇張ではなく一致していて、<人情噺>としての情と軽さが程よい味わいであった。

前進座の人気演目とあったが、納得である。今回、本村祐樹さんと忠村臣弥さんは大抜擢だそうであるが、大先輩たちに囲まれ十二分に自分の力を発揮されたような出来映えであった。

 

二代目 吉田玉男襲名披露公演

国立小劇場 人形浄瑠璃文楽五月公演は、『二代目 吉田玉男襲名披露公演』である。パンフレットに、二代目玉男さんが、襲名を決心したのは、平成25年の『伊賀越道中双六』の通し狂言で唐木政右衛門を勤めたときと言われている。残念ながらこれは観ていない。

伊賀越資料館に行った時、玉女(当時)さん、勘十郎さん、和生さんと三人の並ばれた写真を見て、世代交代の時期なのだと感じたが、今回の文楽を観ていてもっと強い思いを感じた。自分たちが引っ張って行かなければならないという思いである。( 伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-2)

口上で並ばれた、玉男さん、勘十郎さん、和生さん。第一部の『一谷嫩軍記』での、熊谷直実の玉男さん、相模の和生さん、藤の方の勘十郎さん。第二部の『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』の帯屋長右衛門の玉男さん、お絹の和生さん、お半の勘十郎さん。そして、長右衛門とお半の道行は、玉男さんと勘十郎さんコンビの息の合わせかたに人形に息を吹き込ませる瞬間を瞬間を観させてもらった感がある。

そして、さすがであると楽しませてくれたのが、丁稚長吉の蓑助さんのコミカルなリズム感のある人形の遣い方である。嶋大夫さんのかたりと錦糸さんの太棹に乘って、顔、胴、手足が面白いようにピタリと止り、その可笑しさが長吉の軽薄さを表す。しかしこの軽さは長右衛門とお半の悲劇性の前に立ちはだかり、長吉には到底解かり得ない、自己中心的な残酷さが含まれたいて、次の道行への展開となる。

まわりに義理を深く感じて生きてきた長右衛門には、過去に一つの事件があった。そのこととお半とが重なり心中へと滑り落ちて行く。このあたりで、ふーっと、太宰治さんと重なってしまった。

偶然が必然になってしまった長右衛門とお半の道行は5挺の太棹で激しく揺すぶられ運命に逆らえない二人をいざなう。

口上で和生さんが初代玉男さんの『一谷嫩軍記』での熊谷直実の工夫について語られた。「文楽藝話」でも初代玉男さんは語られているが、それがすぐに目にすることが出来、成程このことかと判った。芸談も本で読んでいても舞台を観た時には忘れていたりするので、初代玉男さんの芸の継承が二代目玉男さんに繋がったのが実感できた。口上は、ロビーで映像で紹介されている。

今回の『一谷嫩軍記』の<嫩 ふたば>の一文字の重さに深い意味を観た。同時に生まれいでた双つの葉。それは、小次郎と敦盛である。その二人が入れ替えられる。小次郎が死に敦盛が生きる。しかし、表向きは敦盛が死んだことになっている。幼少の義経を助けた弥陀六の宗清が、義経に、あなたを助けなければ平家はこんなことにはならなかったという。そして敦盛を預かると、もし敦盛が大きくなってあなたを仇としたらどうするかと問う。義経は、その時は、受けて立つと答える。

それに対し熊谷は、浮世を捨てた自分には源平どちらにも縁はないと告げる。このとき「十六年も一昔」の場面より、熊谷の虚しさが深くなった。我が子を犠牲にしてまで院のご落胤ということで敦盛の命を助けた。ところが、敦盛はまた誰かに神輿に乗せられ次の戦の火種となるのだろうか。この世に生を受けた<嫩 ふたば>は、なんのために命を授かったのだ。一枚の葉は落ち、自分の守ったもう一枚の葉も、この戦さの世にあっては、落ちる運命なのであろうか。熊谷の虚しさが、胸に一気に押し寄せ、平家物語の世界が熊谷直実の背後に広がった。そしてそこに流れる交差する<嫩 ふたば>のそれぞれの母親の子を思う心。

この物語性は、人形と人間の表現では違ったものとなる。人形に物足りなさを感じたり、かえって人形でのほうが、歴史的背景が舞台上に出現したり、情の深さや無常観などが現出したりする。それは、それぞれを観てのお楽しみである。

人形と浄瑠璃のぶつかり合い。息の合い方。人形同士のぶつかり合い。息の合い方。大夫と三味線のぶつかり合い。息の合い方。この複合体が文楽である。

そして、一体の人形を三人で遣う。初代玉男さんは、「<これなら無口な俺でもやれるかな>と黙っていても商売になる人形遣いの道を選んだ」(山川静夫・文)そうで、その師匠の足を十五年、左遣いを二十五年つかえられた二代目吉田玉男さんの先の長い出発点である。<祝>

(他のお勧め紹介。竹本千歳大夫さんと三味線の野澤錦糸さんの「素浄瑠璃の会 浄瑠璃解体新書~サワリ、クドキ、名文句~」が行わわれる。5月27日19時開演。江東区森下文化センター。下町で浄瑠璃とは粋である。迫力あるベンベンの音と千歳大夫さんの語りのお顔拝見だけで、浄瑠璃に触れたぞと思えるであろう。)

 

東海道 平塚から大磯を通り二宮へ(2)

JR東海道線と交差して進むと<江戸見附>の案内板がある。

左手に日枝神社がみえてきてここから国道1号線と重なる。このあたりから大磯宿となる。左手に<小島本陣跡>の碑と案内板があり、もう一つの本陣跡をさがしていると、中年の男性が、<地福寺>は行かないの。藤村のお墓があるよ。と声をかけられる。左手のすぐ近くにお寺が見える。これなら寄れると、そちらに先に行くことにし、男性に新島襄の終焉の地を尋ねると、解かりやすく教えてくれた。

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一度大磯の町だけは歩いているが、東海道と上手く効率よく廻れるか事前に調べていなかったので助かった。島崎藤村と静子夫人のお墓が梅の木の下に並んでいる。そこから<島崎藤村旧宅>へまわることとする。かつて大磯駅から来た道がわかるが、その時も旧宅まですぐには行きつかなかったので、地図を見つつ進むが、やはり途中で、地元の人に尋ねる。藤村さんはこの家が気に入り、終焉までの2年半を過ごしいる。静子夫人はその後、箱根に疎開するが、最後はこの家で暮らされ亡くなっている。

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国道1号線に出て<本陣跡>方向にもどる。先ず<鴫立庵>に立ち寄る。西行法師の「こころなき身にもあわれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮」の歌にちなみ、小田原の崇雪が草庵を結び、鴫立沢の標石を建てたという。この庵室に初めて入庵したのが、俳諧師でもあった大淀三千風(おおよどみちかぜ)さんで、今の庵主さんは二十二代目である。俳諧道場もあり、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び三大俳諧道場の一つである。円位堂には西行法師の座像があり、法虎堂には、虎御前の十九歳の時の姿の木像がある。観音堂には、中国革命家・孫文の持仏(二千年を経た化石仏)であった観音菩薩像が本尊としておさめられている。

この日も句会が行われていた。庵の前に置かれたお茶をいただき、ホッとする。

同志社創設者、新島襄が病に倒れて亡くなった旅館百足屋の一部だけのこっている場所に徳富蘇峰の筆による碑がある。志し半ば47歳で亡くなる。

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さらに東に進み、虎御前が曽我兄弟をしのんで庵を結んだ跡といわれる<延台寺>。ここに、虎御石と呼ばれる石がある。山下長者が子宝を願い虎池弁財天に願いをかけると子供が授かり、虎と名前をつける。長者の枕元には小さな石も置かれてあり、その石を大切にしていたところ、虎女とともにその石も大きくなる。十郎が虎御前の家で工藤祐経の刺客に襲われた時、十郎に放たれた矢を身代わりとなって受けたといわれる石である。石はお堂の中で見学は予約が必要のようである。大磯では虎御前の人気は高いようである。広重の大磯宿の浮世絵が「虎が雨」で雨が降っていて、虎御前の十郎を想う雨なのであろうか。

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さてふり出しに戻り、もう一つ<尾上本陣跡>があるはずだがと捜す。これは案内板がなく、碑のみであった。もうひとつ、石井本陣があったようであるが、この碑はない。本陣が三つあったのである。再び西に向かうと<高札場跡>の案内板があり、ありがた味を加えるために高い位置に高札があったとあり、皆が見上げている絵がある。見やすさが肝腎であろうと思うが、いつの時代も上のお方は見上げられるのが重要な事なのであろう。

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<鴫立庵>を過ぎて西に向かうと見事な松並木が続く。海の潮風でかなり曲っている松もある。今は排気ガスに嘆いている。海側にも行きたいが海までは遠いので迷っていると、友が<こゆるぎ緑地>への小路を見つける。よさそうな小道なので海に向かう。この海岸地帯は明治の名士たちの邸宅や別荘が並んでいる場所である。海のかなり手前にこれから育つ松を植えた緑地があり、それを、西に進む。海も見え良い進み方である。

適当なところで国道1号線にもどり進むと、右手に城山公園があり、左が吉田茂さんの旧邸である。建物は焼失し、再建しているところである。庭をまわるが広い。海が広がりこの庭を歩くだけでもかなりの運動量になりそうである。

後は、、<一里塚>を見つけてJR二宮駅に向かえば良いだけである。今日は、かなり上手くいき充実した内容だったと友と話し合い、「いつも一つくらい見つからないのよね。」と言い合う。変な予感。<六所神社>まで2キロの表示が見える。「このへんから左手の<一里塚>に注意しよう。」「もう出てきてもいいはずよね。」「おかしい見落としたかな。」右に<六所神社>が見える。納得できないまま、JR二宮駅となり、電車の中で地図を広げる。地図の左下の囲みに城山公園周辺図があり、城山公園前の信号から、旧東海道の道筋とある。本を取り出す。「旧東海道はこのあたりから国道1号と分れる。」とかいてある。地図は丁度綴じ込みの部分で、よくみると国道からそれている。これである。大磯の途中から小田原までは、国道で面白くないとの仲間の感想が二人ともインプットされていた。

きちんと文章を読み込まなかったのがいけないのである。これは、またリベンジである。これから先、何回もリベンジしているわけにはいかないので、旧東海道に入る部分を厳重チェックと二人で戒めた。

この日のお昼は、仲間たちが寄ったという水車のあるお蕎麦屋さんで、冷たい天ぷらそばとシラスどんぶりセットでエネルギーは充分だったので、次のリベンジの意欲も残っていて、メラメラと計画を練った。

 

 

 

東海道 平塚から大磯を通り二宮へ(1)

「平塚」~「大磯」~「二宮」までが目標である。ただし、「平塚」と「大磯」での見学場所が多いので、目的地が見つかるがどうかによる。今回は、仲間一人が同道である。

JR平塚駅から、先ず<お菊塚>からにする。友は探しあてられず今回リベンジである。他の仲間は三回目で見つけたり、情報を得て一回で見つけたりという手強いお菊さんである。駅から紅屋町の表示が見える町内に入り、小さな公園と思ったが、あれ!違う。待ってくださいよ。こんなに近くはないか。友が、この辺りは私たちも捜していてもっと先にあったと言っていたよと。地元の人に尋ねる。そんなに駅から離れていたのかなあという位置にあり、無事に到達。経験の生かされない二回目の<お菊塚>である。

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東海道に出る。前回ゲットした平塚市の地図も出す。<馬入一里塚>あたりで道路が分れ、右手国道1号線、左手東海道となっていて、その延長線の道である。<馬入一里塚>近くに「榎木町」とあるが、一里塚に榎木が植えられていてその地区を「榎木町」と言ったのであろうかなどと想像するのも楽しい。右手に<平塚の江戸見附跡>。宿場の入口が判ったところで、お菊さんのお墓に向かう。「見附町」の名前がある。墓地の中を捜したが無い。地図からいうと端なので、道路脇から捜すとあった。真壁家墓所の中に。そして新しく<番町皿屋敷 お菊の眠る墓>の墓石があり、裏に父・真壁源右衛門さんの詠んだ歌が彫られている。「あるほどの花投げ入れよすみれ草」

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現場にもどれで、東海道にもどり、<脇本陣跡>。宿場の中心である。道路反対側に<東組問屋場跡>。戻って、<高札場跡><本陣旧跡><西組問屋場跡>。東西の問屋場があるが、仕事が大変なので、十日目交替で執務していたとある。ここから北へ入り、おたつさんの墓に向かう。<平塚の塚>のそばである。

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<平塚の塚>は、「ひらつか」の地名の由来の場所である。桓武天皇の三大孫高見王の娘・政子が東国の旅の途中逝去しこの地に埋葬され塚が築かれ、その塚が平になったので、里人が『ひらつか』と呼びそれが「平塚」の起こりとある。

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その近くに歌舞伎『鏡山旧錦絵』のモデル松田たつ女のお墓と顕忠碑がある。おたつは平塚宿松田久兵衛の娘で、萩野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中臈(ちゅうろう)岡本みつ女のもとに奉公にあがる。主人みつ女が年寄沢野から侮辱をうけ自害。たつ女は、沢野を討ち主人の仇をとったのである。歌舞伎では「お初」となり、この役で印象に残っているのは芝翫さんのお初である。年齢に関係なく主人を想う健気で一途な娘役が見事であった。御主人の尾上は雀右衛門さんであったと思うが、とすると、岩藤はどなたであったのであろう。後で調べてみることにする。

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これで安心、東海道にもどり、<上方見附跡>。解説板に広重の平塚宿の「縄手道」の浮世絵が紹介されている。平塚も空襲や区画整理で正確な東海道史跡が分らない部分もあるが、前方の高麗山(こまやま)から考えて、広重の絵もこの辺としている。絵は前方にこんもりとお椀のような山があり、山に向かう道の両脇は海である。不思議な絵であると思っていたが、このあたりは埋め立てられたのであろうと想像すると誇張しているとは思うが納得できる。平塚宿も終わりである。国道1号線と合流する。大磯に入る。

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花水川に架かる花水橋を渡り、大磯宿をめざす。右手に高麗山のふもとにある高来(たかく)神社の入口がある。この「高麗」も「高来」も朝鮮半島の高句麗(こうくり)に由来する。唐・新羅軍に敗れ国を追われた高句麗の王族関係の人々が日本各地に渡来し、大磯の高麗山ふもとに住み、開墾に尽力したという。海からこの高麗山が見えたのであろう。大磯は彩色の当時の様子を描いた解説板となる。

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虚空蔵堂

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化粧坂(けわいさか)あたりから国道1号線と分れ旧東海道に入る。松が少し残る道である。左に<虎御前の化粧井戸>がある。鎌倉時代は、大磯の中心はこの化粧坂あたりであったという。曽我兄弟の兄十郎の恋人虎御前は、この近くの山下長者の娘でこの井戸の水を使って化粧したであろうとの名前である。

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右手に<大磯一里塚跡>があるのを見落とし、戻って捜す。<化粧坂の一里塚>の絵入り案内板があった。市によっ史跡の解説・案内板は違い、石碑のところもあれば案内板だけのところもある。大磯の表示に慣れず、石碑的表示を捜していて見逃したらしい。

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JR東海道線の下の道を通る。友は一度ここを歩いていたが、時間が遅くなり暗く化粧井戸の案内板など何も見えず、ひたすら大磯駅を目指したのだそうである。保土ヶ谷の<権太坂>を私たちは旧東海道ではなく、大学駅伝の権太坂を歩いたのであるが、そのリベンジをしてから歩いたのでおそくなったらしい。私もリベンジしなくてはならないのであるが、一応、「保土ヶ谷」「戸塚」間は歩いているのである。

東海道 茅ヶ崎から平塚

茅ヶ崎から平塚は4キロくらいと思う。藤沢から平塚までが約13・5キロくらいである。茅ヶ崎駅近くに一里塚があったので、平塚付近にも一里塚があるはずだが、地図には無い。昔あった位置が不明なのであろうか。とにもかくも、今日は楽勝とJR茅ヶ崎駅から出発で国道1号線にでる。先ず最初は右手に<第六天神>がある。さらに進むと鳥井戸橋があり、<南湖左富士之碑>の石碑がある。京に向かう時、常に右に富士山が見えるがここでは左に見える<左富士>の地点である。

静岡県の吉原にも<左富士>の地点があるが仲間の話しだと、今は建物があって見えないとのことである。JR吉原駅で降りると、正面に富士山があり、ひたすら富士に魅せられて突進して行ったため、東海道からどんどん遠ざかり、地元の方に<左富士>の位置を尋ねたところ、すぐ教えてくれたそうである。同じような尋ね人が多いのかもしれない。とにかくそれくらい素晴らしい富士山だったようである。道に迷ってもいいからそんな富士山にめぐり会いたいものである。

神奈川のほうの<左富士>は霞んで見えなかった。右手には大きな鳥居が見え、<鶴嶺神社>の入口である。参道が1キロあるという。それも両側がずーっと松並木である。往復2キロであるが、今日は歩く距離も短いので、本殿まで歩く。 <鶴嶺神社>にも大イチョウがあった。前九年の役の戦勝祈願に源義家が植えたものといわれている。このあたりの歴史はよくわからない。鶴の首のように長くて美しい松並木の参道であった。鳥居までもどり西を目指す。

小出川を渡ろうとする手前の左に公園のようなものが見え案内板のようなものも見える。近づいてみると、水が張ってあり杭のようなものが出ている。これは、関東大震災のとき、源頼朝が渡ったといわれる橋の橋脚が出現したのだそうで、それを保護して守り、後に埋めてその上に、再現模型を作ったのが現在の形である。写真などが掲示されていて、木をどのように保護して埋めているかの図もあった。八王子城での礎石を思い出した。それにしても、地震の被害の大変な時によく遺したものである。歴史的知識のしっかりした人がいたのであろう。<旧相模川橋脚>とあり、相模川の流れの位置が変わったことを表している。頼朝は、この橋を渡った帰り道に落馬しており、その後この落馬が原因であろうか亡くなっている。

もう少し進むと現在の相模川があり、昔は馬入川とも呼ばれたのであろうか、橋は馬入橋とある。この橋はかなり長い橋である。時間があったので、平塚に着いてから平塚市博物館に寄った。そこでジオラマミニチュア模型の相模川のランプを押したら、赤い電気のランプが凄い範囲に広がり、幾つもの川が河口に集まっている様を目にして驚いた。相模湖からも流れてきているのである。 馬入橋の南側の海寄りに鉄橋が見え、橋の上では撮り鉄さんであろう、東海道線の電車を撮っているようである。撮ることに夢中のあまり、ヒンシュク者の撮り鉄さんもいるようである。

馬入橋を渡って少し行くと<東海道馬入一里塚跡>の石碑が建っていた。新しいので近年建てたのであろう。これで納得である。ここまで来ればJR平塚駅はもう一息である。

平塚駅を背中に北へ向かい立派な<平塚八幡神社>と<平塚市博物館>に寄る。すぐそばの平塚市美術館には一度来たことがある。バスを使ったが歩ける範囲であった。 <番町皿屋敷>のお菊さんの塚があるので、それだけは見つけて帰ろうと思うが、仲間が苦労したというので、市民センターに寄り平塚の地図をもらい、<お菊の塚>を聞いたが詳しい人はいなかった。市民センターの手前に<平塚見附跡>があり、ここからが<平塚宿>となる。

<お菊の塚>は商店街の間に挟まるような小さな公園にあり、それも、背の低い草木に囲まれ見落とすところであった。解説板があった。

お菊は平塚宿の役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため、江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主膳の意のままにならなかったため、家来が憎み、お菊が皿を紛失させたと主膳に告げ口し、手打ちにかけられる。死骸は長持ちに積められ馬入の渡し場で父親に引き取られる。源右衛門は、死刑人の例にならい墓を作らずセンダンの木を植えて墓標にしたと。

そのような事が書かれてあった。今は、真壁家の墓所にお菊さんのお墓がある。このお墓は、次の「戸塚」から「二宮」での東海道歩きで探し行くことが出来た。さらに、歌舞伎『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』のお初のモデルとなった松田たつさんの<義女松田たつ女顕忠碑>もありちょっと驚いた。

お菊さんの塚が見つかり、目的達成の「茅ヶ崎」から「平塚」である。

 

東海道 藤沢から茅ヶ崎

旧東海道歩きも、気ままさゆえに自分でもどこまで歩いたか混乱している。飛んでいるから間を埋めなくてはならない。というわけで一人、藤沢から平塚までの予定であったが、茅ケ崎までとなった。

藤沢での旧東海道を見つけるのが大変であった。戸塚から藤沢までの時、遊行寺の後、浅間神社に寄って一応おしまいとしてJR藤沢駅に向かったため、遊行寺の出口を参道の階段ではない方の黒門から出ていたので遊行寺橋を渡っていなかった。地図に<遊行寺橋>とあるのに、実際にある<藤沢橋>を名前が変わったのだと勘違いしたのである。地図には<藤沢橋>の名前がなかったのである。北側にもう一本道があり迷ったが<藤沢橋>を背にして進んでしまった。そろそろ右手に<藤沢公民館>が出てきてもいいはずだが出て来ない。人に訪ねると道が違うと思うとのこと。仕方がない。迷ったところまで戻るしかない。<藤沢橋>を右手に北に向かうと旧東海道の案内板がある。完全に間違っていた。さらに進むと右手奥に赤い<遊行寺橋>があった。

昨年はこの参道の階段から見事な桜を眺め見降ろしたのである。遊行寺の境内まで上がる。あの美しかった八重桜も、今年は終わりを告げていた。その分、銀杏の木が青々と元気な姿を誇っている。一度この銀杏の秋の色も堪能してみたいものである。

心機一転、階段を下り、旧東海道に向かう。出てきました。右手奥に<藤沢公民館>が。この辺りが藤沢宿である。<蒔田(まいた)本陣跡>の標識、左手の消防署の前に<坂戸町問屋場跡>の標識。<問屋場(といやば)>というのは、幕府の公用の役人の旅のお世話をする事務所である。人足や馬を手配したり宿を世話したりと役人相手の仕事なので気を使い大変だったようである。

消防署の裏手の常光寺のさらに裏手に<弁慶塚>があるというのである。結構探すのにてまどった。裏とあったので、お寺の脇からまわり裏から入ったが、本堂側に降りてきたところにあった。文章と文庫本の地図で探すので距離感が予想になる。この本の編纂にかかわった方の一人が、保土ヶ谷駅近くのお蕎麦屋さんのご主人で、偶然そのお蕎麦屋さんに寄り、その事実を知る。「この本だけで歩いてるの。」と驚かれ、それからは手に入ればパンフレットなども使うが、私たち仲間はこの文庫本が好きである。「迷って地元の人に聞くのも旅を感じるよね。」「言葉と会話の理解の幅も感じるし。」古いことは年配者がよく知っているが、道のみに関しては若い人のほうが、簡潔に説明してくれる事もある。

東海道にもどり、先の右手奥に、源義経を祀った<白旗神社>がある。白旗神社に向かう前に<義経首洗い井戸>があり、奥州で亡くなった義経の首が首実検のため鎌倉に送られ、そのあと片瀬の浜に捨てられたと「吾妻鑑」にある。その首が境川をのぼりこの地に着き、里人によってこの井戸で首を洗ったと伝えられている。

<白旗神社>には、その石に触ると健康で病気にならないというに<弁慶の力石>があり、芭蕉句碑もある。「くたびれて宿かる比(ころ)や藤の花」。藤はまだであったが、藤が風にゆれているのを想像したら、くたびれたというため息が似合っている。ただし句碑の上の藤棚には「弁慶藤」とあった。元気がよさそうな藤である。白旗神社のお祭りには、義経と弁慶の二基の神輿が出るとのこと。

<白旗神社>から東海道にもどり、道路の反対側の奥に<永勝寺>があり、このお寺には、<飯盛女>と呼ばれていた旅籠で給仕と同時に遊女の側面をもっていた女性たちのお墓もあった。彼女たちを抱えていた旅籠小松屋が、39人の墓を建て供養したのである。悲しいかなこのように供養されたのは珍しいことである。東京には、投げ込み寺というのもある。

小田急線の「藤沢本町駅」を右手に進むと、道路左手に<見附跡>がある。道路左右に史跡があるので、横断歩道を右に左に渡り歩きつつ進まなければならない。<見附>があれば、藤沢宿のはずれである。引地川に架かる引地橋を渡りひたすら西に歩く。このあたりは国道一号線と旧東海道が一緒なのであるが、のちに気が付くが、この引地橋手前で国道一号線を外れて旧東海道を歩く部分があった。それを見逃していた。このうかつさは、大磯から二宮での歩きで経験する。

西へひたすら進むと、東海道と大山詣でへの道とに分かれる分岐点にぶつかる。小さな<四谷不動>の堂があり、右手には大山道に向かう道で石の大鳥居が立っている。この鳥居を潜って、大山詣でに向かうのである。関宿の伊勢路への鳥居を思い出す。

大山も行ってみたいとおもうが、こちらは東海道を進む。そして<一里塚跡>がある。JR辻堂駅と並ぶ位置である。松並木が少し残っている。<茅ヶ崎一里塚>に至る。一里約4キロ。街道の両側に盛り土をして、その上にエノキなどが植えられた。この木の木陰で行程の検討をつけホッと一息ついたのである。近頃では私たちも、この一里塚の跡などで行程を考える。藤沢から茅ヶ崎で約8キロである。

今回は平塚まで行く予定であったが、道を間違え時間的ロスもあったので茅ケ崎までとしてJR茅ヶ崎駅に向かう。折角であるから、志ん朝さんの『大山詣り』のDVDを楽しむことにする。

 

八王子城跡

小説『RDG レッドデータガール』に<八王子城>が出てきて初めて八王子市にお城があったのを知る。ただし山城である。天守閣のある城ではない。

『RDG レッドデータガール』では、( 熊野古道の話題増殖 ) 主人公の泉水子(いずみこ)が東京の高校に入学するが その高校が八王子にあるらしいことがわかる。そして、泉水子たちは肝試しに夜、<八王子城跡>に登るのである。ここで初めて<八王子城>とその歴史を知る。<八王子城>に行かなくてはと仲間うちで話しつつ、行こうとすると雪が降ったりして延び延びになってしまった。

仲間の一人が、高尾山で春限定の精進料理があり、それも行きたい のだがということなので、高尾山と八王子城の二つを組み合わせることにする。雨の時は中止なので予約しなくてよい精進料理とし、11時からなので10時半に高尾山薬王院での待ち合わせとする。元気な人は先に、高尾山入口から山頂まで登り、降りてきて藥王院で待ち合わせである。

<八王子城>が本命であるから、体力温存組はケーブルカーで上がり、薬王院に向かう。ご本尊の随身は大天狗と子天狗(烏天狗)である。今回で高尾山は三回目であるが、全てケーブルを使っていて次の機会には、下から登ることにしよう。一度はダイヤモンド富士を見るために一人で来たが、期待していたよりもダイヤモンド富士は地味であった。

精進料理は、これから行動するものにとっては胃に優しかったが、これからが本番という気持ちも薄めてくれて、さあこれからと気合を入れる。

JR高尾駅北口からバスが出ていて、平日は八王子城跡まではバスは出ていない。霊園前でバスを降り歩きとなる。途中に北条氏照と家臣の墓がある。氏照はここでは死んでいない。

八王子城は、三代目の北条氏康の三男氏照が築いた山城である。豊臣秀吉は小田原城を取り囲み、他の北条氏の城は配下の大名たちに攻めさせる。氏照は小田城で徹底抗戦の構えでこもっていた。八王子城は、前田利家と上杉景勝らの連合軍に猛攻撃で攻められ、城主なきまま一日で落とされて、多くの犠牲がはらわれる。この八王子城の落城が小田原城開城のかなめとも言われ、氏照は小田原城で切腹している。小田原にも墓があり、ここは、氏照の百回忌に建てられたものである。樹木の間にひっそり建っている墓は無念そうである。

脇道のお墓からもとの道にもどり進むと、ガイダンス施設があり、映像「八王子城物語」が見れる。ここでパンフレットなどを手にし、管理棟まで行きガイドボランティアをお願いする。お願いして正解であった。山城の知識などないので、見学しただけでは想像力が働かない。

普段住居としている御主殿部分と闘うための本丸とは離れていて、管理棟を軸に道が違うのである。まずは御主殿跡を案内してもらう。石垣ではなく<土塁>で周囲をかこんでいる。これが石垣よりもすべって登りづらいのである。それも関東ローム層の粘土質である。ただ雨などで崩れやすいので、間に石を挟む形にしている。関東が石垣の城が出来たのが遅く城作りが遅れていたと言われるがそんなことはない。自然の力を生かしたのであると強調される。上の方に古道があり、そこから橋が架かって御主殿へ入るかたちとなるが、今その橋は架かっていない。新しくするため古い橋は外されてしまっていた。

<御主殿の滝>。多くの人々が滝の上流で自刃して身を投じたため、その血で城山川の水は三日三晩赤く染まったと伝えられる滝である。「今、小説やアニメの影響で心霊スポットとして知られています。」「私たちも小説組です。」「見ての通り、飛び込むような滝ではありません。城は焼かれますから、ここに逃げ延びて自刃したとは考えられます。」確かに想像していたより小さな滝であった。

御主殿跡には礎石の後に石が並べられているが、一度掘り返してまた埋めたそうで本物ではない。その礎石には、柱の焼け跡が残っているそうで、仲間が、「ガラス張りか何かにして見えるようにするといいですよね。勿体ない。」という。「そうなんですよね。一つでも本物をね。」なるほど。跡が残るほど火の勢いが激しかったということか。御主殿は、役所や争い事の仲介のような仕事の場でもあった。客殿が北向きなのは、その前の庭が南向きで、植物や花などが南を向くから良い姿を眺められるということで、北向きなのだそうだ。なるほどそういうふうにも考えられる。「庭の奥の小屋は茶室ではなかったかと想像するんですがね。」ここから、ヴェネチア産のレースガラスや中国産の皿も見つかっている。

解説を聞くと、次第に御主殿が想像の世界に表れてくる。というわけで、時間がオーバーしてしまい、本丸まで4、50分はかかるため往復する時間が無くなってしまった。ここは自然に恵まれ、12月には鬼女蘭という白い鬼女の髪の毛のような花が咲くと言う。それを食するアサギマダラという海をも渡ってしまう蝶が飛ぶのだそうである。本丸は再度12月に訪れよとのことと判断し、帰路につくことにした。

連休前の暑い日で、これから本丸まで登る気力が失せてもいたのである。新緑のこの自然の中で凄まじい戦さがあったのである。年に数人道に迷うかたや、違う方向に下りてしまうかたがいるという。「精進料理食べてる場合ではなかったね。」と提案者がいうが。「いいわよ。魔女蘭に会いに来よう。」「違う。鬼女蘭!」

 

 

 

『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と『龍三と七人の子分たち』

バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と『龍三と七人の子分たち』の二本の映画の関連性はない。たまたま、久方ぶりに新作映画を続けて観たのである。関連するといえば、かつて名を鳴らした人が埋もれていて、再起をかけて発奮するということであろうか。

バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ出来事)』は、かつて「バードマン」という映画で名声を得たスターが、今は映画の仕事もなく、舞台演劇の役者として再起をかけている。その主人公役が、マイケル・キートンで、彼は映画『バットマン』で主役のバットマンを演じたため、そのこととも重なって評判をとり、演技力も改めて認められた。「バードマン」は、<鳥男>という意味らしく、主人公のリーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ち目となっても常にその<鳥男>に付きまとわれている。「バードマン」としての華やかなりしころの想いを<鳥男>は運んできて今の彼を苦しめる。

映画の中では、彼が望むと物が動いたりするが、それは、彼の心の妄想を表す。何とかブロードウェイでの舞台を成功させたいと必死なのであるが、その舞台裏は、お金のこと、共演する役者のこと、劇評家のことなど難問山積みである。さらに、離婚後引き取っている薬物依存症の娘(エマ・ストーン)をそばに置き、付き人として手伝わせている。役者の一人が装置の落下で怪我をして、新しい役者・マイク(エドワード・ノートン)を雇う。これが上手いのであるが、アルコール依存症である。怪我をした役者には保障金を請求され、マイクは舞台上で勝手な演技をする。 追い込まれたリーガンは「バードマン」となって自由に空を飛ぶ。そして彼はある決心をする。舞台のリーガンは迫真の演技を見せる。しかし、それは現実には失敗に終わる。現実には失敗するが、彼はそこで、<鳥男>と決別して飛べたのだと思う。娘が、ラスト「パパったら!」とにっこり笑うのがその証と思う。それが、長いタイトルの『(無知がもたらす予期せぬ出来事)』と解釈した。

これまた、解釈の分れる終わり方なのである。<バットマン>や<バードマン>(こちらは予想であるが)の奇跡的はハッピーエンドに重ねた。 マイケル・キートンとエドワード・ノートンのプライドの対決も面白い。思わぬ災難からリーガンのブリーフ一枚で街中を歩く姿がネットで公開となり、アクセス数が膨大な数となるのが現代のネット世界を象徴している。舞台裏をみせつつ、心理を超常現象にしているところが技巧的である。

映画『バットマン』も思い出す。どれが『バットマン』映画の中で一番かは、これまた好みがありケンケンガクガクである。

龍三と七人の子分たち』は、ただ笑って楽しむ、任侠おじいちゃんのファンタジーであり、任侠映画へのオマージュである。

兄貴分の龍三(藤竜也)とマサ(近藤正臣)は時々逢っている。昔の仲間のはばかりのモキチ(中尾彬)が詐欺行為の現場で、若い者に暴力を受けているのを助け、龍三がオレオレ詐欺に騙されたこともあり、組を復活させることにする。昔の仲間にハガキを出し、上野の西郷さんの像の前で一人、また一人と現れるのも見どころの一つである。 早打ちのマック(品川徹)、ステッキのイチゾウ(樋浦勉)、五寸釘のヒデ(伊藤幸純)、カミソリのタカ(吉澤健)、出来すぎの場面で登場する神風のヤス(小野寺昭)で、<龍三+七人>となるのであるが、この元ヤクザおじいちゃんたちの親分の決め方が面白い。それを記録する飲食店の店主の職業意識も笑わせる。これは、北野武監督が楽しんでアイデアをドンドンはめ込んでいったオモチャ箱である。

『バードマン』のリーガンがブリーフ一枚なら、龍三親分はもっとド派手である。案外繋がるものである。 どういうわけかことが起きると、京浜連合の若い者たちと繋がってしまう。因縁の対決である。騒動のきっかけは、はばかりのモキチである。この方、落語の『らくだ』のかんかんのうを踊るラクダの役目もし、何回も死んでしまう任侠映画の役者さんをも連想させる。はばかりながら、<はばかり>という言葉も死語に近いかも。バスで商店街を走る場面は、終戦直後の闇市を走り回るところを、老人だから、バスに乗せてしまおうと考えられたかどうかは謎である。

所どころに挟まっているセリフが、ㇷ゚ッ!と吹き出してしまう。 北野監督は遊びながらも、任侠おじいちゃんを格好よく収めてくれる。マルボウ担当の刑事役者として、仕方がないな格好悪くはできないしと、登場するのである。最後まで<龍三と七人>は恰好よく任侠を貫けるのである。

どうしてこの映画を観たかというと、世田谷美術館で『東宝スタジオ展 映画=創造の現場』を見たのであるが、範囲も広く展示方法に心踊らなかったのである。最後に、砧の東宝スタジオを使用したということであろうか、新作の映画のポスターがあり、そこに、『龍三と七人の子分たち』のポスターが目に止った。『オーシャンズ12』? 北野武監督? 情報つかんでなかったな。これは見ようと思ったのである。近日公開の同じようなポスター映画の予告をやっていたが、ポスターに関しては若手のほうが一歩遅れを取った感がある。 これは、えっ!と思ったときが勝負である。

昔を忘れられないおじさんたちの困った<八人>であるが、人にやらせるのではなく、自分たちが鉄砲玉になるのであるから、威勢がよくても笑って済ませられる。

 

『ART アート』(サンシャイン劇場)

1999年初演であるから、16年ぶりの再演ということになる。笑いもあるが、コメディでありながら、かなりシリアスな人間関係のなかの<笑い>であり、人が他人の本性をのぞき見してしまった時の<笑い>でもある。

市村正親さん、平田満さん、益岡徹さんの三人の共演ということで、初演を観ているが、最終的には難解であった。お客さんの拍手が静なのは、考えられているのであろう。頭の中に、整理のつかない余韻が残っているのだと思う。こちらがそうなので、皆さんもそうであろうと勝手に解釈しているのであるが、ただ今回は、再演ということもありなんとか蓋を閉めて再度開けられた。

初演の時はマークの市村さんが、お得意のキザな演技で笑わせてくれ、セルジュの益岡さんがマークの優位に立てぬ焦りを強調し、イワンの平田さんは二人に利用されつつ自分を埋もれさせていた印象であった。

今回は、マークは冷静と不安を表し、セルジュは仕掛けた側のゆとりもあり、イワンは、しっかり自己主張している。三人の中に潜む感情の渦が、時間をかけて育てられた演技力と経験から、より深いところから湧き上がってその激しさを静かに現してゆく。

舞台は真っ白な一室である。下手側のサイドテーブルの透明のガラス瓶の中には、赤、青、黄色の液体が入っている。交替で登場するマーク、セルジュ、イワンの衣装は黒である。始まりから印象強い舞台設定である。そこへ問題を引き起こす、白に白の線が描かれている絵が登場する。セルジュが500万で買った絵である。この絵にその値打ちがあるのか。絵の金額の高さが絵の価値とする基準から、マークとセルジュの物事の価値観に対する感性の対決が始まる。

次第に、今まではマークの価値観にセルジュが賛同し賛美し支配されていたことが判ってくる。イワンにとって、そんなことは、どうでもいいことで、二人の和の中に挟まって、現実から逃避できる空間が大好きだったのである。

このバランスが次第にくずれてくる。この過程を役者さんの台詞と動きと表情で読み取っていくわけである。その駆け引きの狭間で笑いを起こす。

この三人だけの長い関係にも、後ろには、パートナーが加わり、新たな家族が加わる。その背景も、三人の関係を微妙なものにしていく。すでに、現実の厄介さをしっかり体現している イワンは、現実とは違う三人の関係を壊す方向に行く二人に混乱し、狼狽えてしまう。二人が笑うであろう自分の現状をぶつける。

或る面では、三人を一人と考えるなら、マークとセルジュがアートの表現に携わる部分とすると、イワンは生活を意味するともとれる。

三人は、相手に対するお互いの本心を少しづつ出し始める。そのことによって、当然傷つくし、傷つけあう形となる。こうした関係はどこにでも存在する人間関係である。

ではこの三人の関係の修復はあるのか。マークとセルジュは、自分の心にもう一度蓋をして、二人のお試し期間を設けるのである。だが、最後の二人の台詞から、寸法の合わない蓋をしたことがわかる。マークは、セルジュの買った白い絵に青色のペンで絵を描く。その絵に三人のその後が暗示されているように思う。イワンもきちんと自分の居場所を探す。

そして、アートという物は、この三者のせめぎ合いの中で生まれるのかもしれないと思ったりもした。初演の時のほうが、三人はもう少し単純な部分があったが、今回はその空白部分に一筋縄ではいかない人格が作られた。それを味わいつつ、自分の中では、この芝居に一つの結論が出すことができた。結論が出るかでないか。出たとしてもそれぞれの違いはあるであろう。そして、静かに拍手である。

作:ヤスミナ・レザ/演出:パトリス・ケルブラ/美術:エドゥアール・ローグ/出演:市村正親、平田満、益岡徹

一つ要望したいのは、16年前は、料金が、A席、B席、C席であったが、今回は、A席とB席の二つである。こういうセリフ劇の場合は、16年前の踏襲でお願いしたい。