えんぴつで書く『奥の細道』から(10)

三山巡礼を終えた芭蕉は鶴岡城下に入ります。鶴岡と云えば藤沢周平さんの小説の世界とつながるのでしょうが、考えてみれば映画やテレビドラマは観ていましたが小説は読んでいないことに気がつきました。先に映像でみてしまって藤沢周平ワールドが固定化してしまっています。原作に触れるともっと細かな機微も見えてくるのかもしれません。

芭蕉はここで庄内藩士・長山重行の屋敷に迎えられ俳諧一巻を巻いています。次に舟で酒田に入ります。ここでは医者の家に逗留します。酒田は北前船の西廻り航路の要港として繁栄を極めていましたので文化や俳諧に通ずる人々も多かったようです。記されてはいませんが当然俳諧の会も催されました。

今も豪商の屋敷などが残されており、明治に建てられたお米の保管倉庫だった山居(さんきょ)倉庫など見どころが多いところですが、私的旅では『土門拳記念館』が目的で他を見学していません。酒田駅からバスで『土門拳記念館』へ行く途中で最上川を渡りました。大きな川でした。

西廻り航路ですが、これを開拓したのが河村瑞賢という人で1672年(寛文12年)のことでその17年後に芭蕉が酒田を訪れているのです。驚くべきにぎわいだったのではないでしょうか。石巻ではにぎわう港の様子を記していますがここでは何も書いていません。さらに石巻では宿を貸してくれる人も無かったとしています。こういう書き方は芭蕉の強調の文学性の特色でしょう。

芭蕉の旅は酒田から象潟へと進みます。芭蕉の気持ちは象潟に飛んでいます。しかし海岸沿いの道はとぎれとぎれで、さらに天候も悪く雨となりますが「雨も奇なり」と次の日に期待します。思っていた通り翌朝にはしっかり晴れて朝の光の中を舟で能因法師が三年閑居したという能因島に舟をつけるのです。そこから西行法師が詠んだ桜の古木が残っている蚶満寺(かんまんじ・かつては干満珠寺)に渡り、ここで松島同様に象潟をほめます。

さらに芭蕉は松島象潟を比較しています。松島では中国の洞庭湖や西湖とくらべても引けを取らない景色とし、美人に例えています。それを受けて記しているのでしょう。「松島は笑ふがごとく、象潟は憾(うら)むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。」松島では句はできませんでしたが象潟では詠みます。

⑧象潟や 雨に西施(せし)がねぶの花 / 汐越や 鶴脛(つるはぎ)ぬれて海凉し

・美しい象潟である。雨の中の合歓(ねむ)の花は有名な中国の美女西施のようである。

・汐越しには鶴がいて、鶴の足が波のしぶきに濡れていて、涼しそうである。

西施は中国の春秋時代、越王の勾践(こうせん)が呉王の夫差を惑わすため送り込んだ愁いをふくんだ美しい女性で、夫差は西施を溺愛し国がは傾むいてしまうのです。松島が笑顔の似合う人であれば、象潟は愁いさが惹きつけられる人ということなのでしょう。

さてその象潟も今は芭蕉さんが眺めた風景とは全く違うのです。1804年(文化元年)の大地震のため、湖底が隆起し一面陸地となってしまったのです。今は水田となり、水田のの中に多くの岩礁が点在し「九十九島」と呼ばれ、違った景観を楽しませてくれているのです。

ここからは『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の黛まどかさんと榎木孝明さんの旅のほうに移動します。

お二人は鶴岡では郷土料理を食します。その中に長山重行が歓待してくれて芭蕉が食したものがありました。民田(みんでん)なすびです。3センチになったら収穫し漬物にするなすびで芭蕉は句を残していました。

現在の象潟の図と画像

芭蕉のころの象潟の図。 能因島から蚶満寺(かんまんじ)へ。

現在の能因島

すべての島に名前がついていて、今はお散歩マップを手に散策できるようです。ここで黛さんは榎木さんの指導のもと苦手なスケッチを試みられました。的確なアドバイスで素敵な絵ができあがりました。旅の記録として俳句とかスケッチはよく観察するため、その時の風を五感で感じており深く残るそうです。

象潟は歌枕の地であり、芭蕉さんは存分に古の人々の世界に浸ったことでしょう。それらすべてを鳥海山は知っているわけです。そんな鳥海山をお二人は絵の中に描かれていました。

追記: 文楽の吉田蓑助さんが今月の国立文楽劇場公演での引退を発表されました。DVD『人形浄瑠璃文楽 名場面選集 ー国立文楽劇場の30年ー』を鑑賞しましたが、何体の人形に命を吹き込まれたのでしょうか。観客と同様に感謝している人形が静かにみつめていることでしょう。これからも文楽のためにアドバイスをお願いいたします。

えんぴつで書く『奥の細道』から(9)

出羽三山の羽黒山は現世で、月山は過去世、湯殿山は未来世と言われています。過去世は死の世界ということでそこから新たな未来世に生まれ変わるということのようです。浄化され再生されるということなのでしょう。

芭蕉は羽黒山から月山湯殿山へとたどり参詣し引き返しています。湯殿山神社の御神体については語ってはいけないという教えに従い「よりて、筆にとどめてしるさず。」としています。

月山に関しては厳しい道のりとなったようです。行者の白い装束を身にまとい強力の先導で雲か霧か分からないような状態の中を雪を踏みつつのぼります。「息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月あらわる。」

羽黒山に拝した私は、月山に行きたいとその後で吾妻小富士、鳥海山、月山のツアーに行きました。月山は八合目までバスで運んでもらい、月山の頂上まで登れない人には、月山中之宮に御田原神社が鎮座してまして、月山神社の遥拝所(ようはいじょ)でもあるのです。ここでお詣りをしまして、その後少し紅葉の弥陀ヶ原散策を楽しみました。

八合目がこんな感じですから頂上は濃い霧の中でしょうか。ここから登るのだとおもったのでしょうか登山口の道しるべを撮っていました。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の黛まどかさんと榎木孝明さんは案内をしてくれる方とともにここから登られたのだとおもいます。

黛さんは三度目だそうで、前の二回は天候不良で断念したようです。三回目で黛さんの願っていたことが叶いました。芭蕉は月山で笹を敷いて篠を枕にして眠り、次の日湯殿山に下ります。その途中で桜に出会うのです。今まで目にしていたであろう桜に触れなかったのはこの山中での桜を強調したかったと勝手に想像しています。その桜との出会いを願った黛さんは月山登山の途中で会えるのです。

「これ桜では!」とみつけられました。

黛さんは、月山登山の『奥の細道』は少し誇張があるのではと思っていたようですが体験してみて実際に大変であることを納得されてました。ただ芭蕉は雪月花をキーワードとしてもいたので、それがそろった月山でもあったそうです。

森敦さんの『月山』を読みました。『奥の細道』を読んでいなければこの本を開かなかったでしょう。

庄内平野をさまよっている主人公の男が、豪雪で行き倒れとなるところを助けられその時月の山と遭遇するのです。月山に導かれるように注連寺(ちゅうれんじ)にお世話になり、そこの村人たちと交流し、村の知られざる伝説のような話を聞き、その村を去るまでのひと冬が描かれています。

森敦さんやはり『奥の細道』に関する本を出しておられました。『われもまた おくのほそ道』。

芭蕉は月山から湯殿山に下る途中で鍛冶小屋について書いています。

「谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を選びて、ここに潔斎して剣を打ち、ついに月山という銘を切って世に賞せらる。」

鍛冶小屋跡が地図に載っています → 志津(姥沢小屋裏)口コース【中級】 | 月山ビジターセンター (gassan.jp)

そこに鍛冶稲荷神社があるようです → 鍛冶稲荷神社 (yamagata-npo.jp)

小鍛冶が刀つくりなら大鍛冶は。製鉄業をあらわすのだそうです。<小鍛冶と狐>、やはり相性の合う最高の組み合わせです。

追記: 

<吾妻小富士・鳥海山・月山>の私的旅はこちらで → 2015年9月26日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

えんぴつで書く『奥の細道』から(8)

芭蕉は最上川を下るため大石田につきます。水運が盛んになったのは、関ヶ原の戦いの後、庄内地方を領有した最上義光が五百川峡(いもかわきょう)、碁点峡(ごてんきょう)、最上峡(もがみきょう)の難所を開削したことによるようです。

尾花沢の紅花もこの川から酒田へ運ばれ、酒田から北前船で京に行き、京で美しく布に染められたりお化粧となって戻ってきたのでしょう。

摘んだ紅花は紅餅と呼ばれるものに加工されます。その紅餅を並べるムシロを花筵(はなむしろ)といい、花笠音頭の踊り手がかぶる笠は花筵に並んでいる紅餅を表しているのだそうです。

体験したくなる映像です → 芸工大生が紅花摘んで紅餅作り – YouTube

大石田で細々と自分たちで俳諧をする人たちがいて、よき師がきてくれたと頼まれて連句一巻を巻きます。この時最初に詠んだのが<五月雨を あつめて涼し最上川>ですが、最上川を舟で下った時には<涼し>が<早し>に変っています。

⑦五月雨を 集めて早し最上川

奥の細道』では、大石田から舟に乗ったように書かれていますが、実際はここから移動して元合海(もとあいかい)からの舟下りのようです。これも<五月雨を 集めて早し最上川>の句をだけを載せて際立たせるためでしょうか。

「最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点、隼などといふ恐ろしき難所あり。」そして酒田の海に入るのです。

最上川の源流 (mlit.go.jp) ←山形と福島の境

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』のお二人も川下りをしています。黛まどかさんが、芭蕉が<凉し>から<早し>にしたのは、新しい土地を訪れたり、どこかに呼ばれたりしたときは、挨拶の句を詠み、句会に招かれた家に、最上川からの涼しい心地よい風が入ってきたのを詠われ、そのあと舟下りの実感が句を変えさせたのではとされています。

梅雨の時期だったので川の水量も多かったのでしょう。『奥の細道』は旅が終わってから時間をかけて書いていますから色々な脚色を探すのも一味違う旅の楽しさとなるでしょう。

黛さんと榎木さんは6回目に月山登山もされていまして最上川下りは、案内人の船頭さんと楽しく談笑されての短い舟下りでしたので少し付け加えます。

「白糸の滝は、青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって、舟危ふし。」

白糸の滝は『義経記』にも出てきていて、仙人堂は義経主従が奥州に逃れる時立ち寄ったともいわれ、家臣の常陸坊海尊は生き延びてここで修業し仙人になったとも伝えられています。

羽黒山についても少し。芭蕉は羽黒山で別当代会覚阿闍梨(べっとうだいえがくあじゃり)により厚いもてなしを受け俳諧の会もしています。

出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)は、月山と湯殿山は冬は雪のため閉ざされるのでいつでも拝観できるように羽黒山山頂に三神が合祀された「出羽三山神社」があります。

個人的旅についてはこちらで → 2014年7月3日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

さて次は月山です。

えんぴつで書く『奥の細道』から(7)

芭蕉は立石寺へは寄る予定ではありませんでしたが、鈴木清風にすすめられ訪れます。平泉の中尊寺が中尊寺の名前のお寺がないように、立石寺もその名のお寺はありません。比叡山延暦寺の別院として慈攪大師円仁により創建されました。山岳仏教の古刹で山寺とも称されています。

建立当時延暦寺から不滅の法灯を分けてもらいました。延暦寺が織田信長によって焼き討ちになり再建されたとき、この山寺から不滅の法灯を再び分けもどしてもらったそうです。油断することなく守っておられるわけですね。

電車なら仙山線の山寺駅でおります。初めて行った時もこの駅でおりました。駅からすぐなのだと嬉しかったのですが前に見える山寺を眺め、あそこまで登るのかとちょっとひきました。

芭蕉さんが立石寺に寄らなければこの句もできなかったわけです。

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』で榎木孝明さんが俳句に挑戦してまして、黛まどかさんの意見が興味深かったので先で紹介します。

詳しい立石寺の拝観図は下記で。

map (yamaderarisyakuji.info)

           

姥堂(うばどう)に座す奪衣婆で、あの世へ来た人の着ていた衣をはぎとります。ここで現世の汚れを払うということでもあるようです。ここから下が現世でここから登っていくにしたがって極楽に近づくのだそうです。

せみ塚(地図の赤丸。芭蕉の句をしたためた短冊を納めた記念碑。)で榎木孝明さんは俳句を二句披露されました

(1) 俳聖の登りし道にシャガの花

(2) 俳聖の登りし道に風薫る

私は(1)のシャガの花が視覚にうったえて良いなと思ったのですが、黛さんは、(1)では報告になってしまうので(2)の風薫るのほうがよいとされました。

風薫るのほうが空間が広がり芭蕉の時代ともつながっていけるというのです。なるほどです。さらに俳句は切れが大事で<俳聖の登りし道に>を<俳聖の登りし道や>に変えたほうが好いのではと言われます。

<閑かさや>のと同じです。切れ字を使うことによって一句を二つの世界に分けて、足し算の世界から、掛け算の世界に広げるのだそうです。切ることによってひろがる。

俳聖の登りし道や風薫る

確かに色々想像が広がります。芭蕉もこの道を登ったのだ。今自分も登っている。なんと心地よい風だろう。今まで気がつかなかった風の香りだなあ。今通り過ぎた人はどんな風を感じでいるのであろうか。ちょっと脱線しすぎでしょうか。ある方によりますと香りとは禅ではさとりととらえるのだそうです。そうするともっと深くなります。

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

この句も芭蕉さんのすごい境地を現わしているのかもしれません。人によっては、蝉の声を死者の声と同化して解釈されるかたもおられます。

切れ字によって広がるという新しい事を気づかせてもらいました。芭蕉さん結構切れ字みうけられます。そのほかの切れ字にかなけりなどがあります。

五・七・五に季語も入れて報告ではなく広がりも持たせなければいけないのですか。型にはめて発するというのはなかなか難しい事ですね。

山寺は新しい発見があり、新しい境地を体験できる場所なのかもしれません。ただミーハー的に芭蕉のあの句の山寺に登ってきたというだけの旅人が約1名ここにいますが。

芭蕉さんに立石寺をすすめた鈴木清風さんはさすがです。

えんぴつで書く『奥の細道』から(6)

平泉を後にした芭蕉は、友人の鈴木清風の住む尾花沢にむかいます。途中尿前(しとまえ)の関できびしい取り調べを受けます。尿前の関は仙台藩と新庄藩の境で出羽街道の要衝でした。ここから中山峠越えをして堺田に入ります。

この中山峠越えは今は遊歩道になっているらしく、途中には義経にまつわる伝説が残る道でもあるようです。

おくのほそ道 散策マップ~出羽街道中山越 芭蕉の道を訪ねて~ (nakayamadaira.com)

堺田では封人の家(国境を守る役人の家)に泊めてもらいます。今もその家は解体修理して残っています。ここでの < 蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと > の句に芭蕉は農家の小さな家に泊まったのだと想像していましたが、これは芭蕉の滑稽味を加味した句でした。泊まった家は代々庄屋もつとめており、馬の産地である堺田は母屋で馬を飼っていたのです。

ここからさらに難所である山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越えますが主人に危険な道だからと屈強な若者を案内につけてくれます。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』でも、黛まどかさんと榎木孝明さんはボランティアの方に案内され山刀伐峠越えをされてます。

最上町からは頂上まで急な斜面で1時間。頂上から尾花沢市まではなだらかで2時間半。頂上までは二十七曲がりと呼ばれる曲がりくねった道です。頂上からは天気がよければ月山が見えるそうです。

難所の山刀伐峠を通らなくても他の道があったのですが芭蕉はこの道を選びました。尾花沢の鈴木清風の祖先が義経の家来で、高館から落ち延びるとき一族が山刀伐峠を通ったとしてその道を体験して清風に会いたかったのではとされています。

そんな想いで訪ねた芭蕉を清風は心からのもてなしをしたことでしょう。鈴木清風は紅花を商う豪商の俳人で江戸へ出たとき芭蕉と交流していたのです。芭蕉は彼のことを次のように記しています。

< かれは富める者なれども、志卑(こころざしいや)しからず。都にもをりをり通ひて、さすがに旅の情けを知りたれば、日ごろとどめて、長途(ちょうど)のいたはり、さまざまにもてなしはべる。 >

清風宅は現存していないので古い商家を移築して「芭蕉・清風歴史資料館」としていま

芭蕉が到着したころは、紅花の咲いている季節でした。当時、芭蕉の故郷伊賀上野も紅花の産地だったそうで発見でした。芭蕉は花の咲く時期を知っていて行動しているようにも思えます。清風は紅花の摘む時期でもあり多忙のため芭蕉を「養泉寺」へ案内します。寺は高台にあり下は田園、遠方には鳥海山や月山が見える場所でした。尾花沢には十日間滞在します。

近隣からも俳諧好きの人々が訪れ、芭蕉を自宅に招待したりしています。清風は俳諧の会も主宰しています。俳諧は連句で、五・七・五の長句と七・七の短句を互いに詠みあってそれを三十六句連ねて一巻としていました。その最初の五・七・五が発句(ほっく)といわれ、それが独立して俳句となったのです。

連句の中では恋の句も詠む決まりがありそこで読んだ芭蕉の句が < まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花 > 口紅の原料でもある紅花から化粧道具を表しそこからお化粧する女性のおもかげをも連想させるという艶っぽい句となっています。

興味があるのは俳諧師としての芭蕉です。句がつながっていく中で、空気を換えたり増したり深めたりするセッションの芭蕉の腕前です。それを知りたいものだと思うのですがそこまでの能力がないのが残念です。

芭蕉は、尾花沢での心地よいもてなしとともに、この俳諧の席は俳諧師として嬉しかったことでしょう。生で人々の句作の臨場感を味わえ、さらに自分の句に対する反応も感じられたわけですから。

芭蕉の『奥の細道』の旅には、広くこの俳諧の楽しさを知ってもらい自分もそれを楽しみたいという意図もあったのではないかとおもわれます。

結果的に芭蕉の歩いた道は整備され一般の人も歩けるようになり、句碑もたくさんの建立しされ俳句に対する関心も衰えず続いています。

黛さんと榎木さんは銀山温泉にも寄られています。江戸時代幕府直轄の銀山として栄えましたが、芭蕉が旅をした1689年(元禄2年)に閉山となっています。その後温泉だけは残ったのです。今は大正ロマン漂う温泉地です。

赤倉温泉の旅館では、芭蕉が尾花沢でふるまわれた「奈良茶飯」を食べさせてくれるところもあるようです。江戸で流行っていたものだそうで江戸を離れた芭蕉のために作ってくれたのでしょう。その辺も心あたたまるもてなしでした。

大豆と栗の入った茶飯、黒豆、ぜんまいと糸こんにゃくの煮つけ、奈良漬けと梅干し、汁

黛まどかさんも食されていました。そのほか芭蕉が伊賀上野で催した月見の宴で出した献立の「月見の膳」を出すところもあるようです。ただこの放送は2007年ですので今も出されているかどうかは確かでありません。

下記の解説版は「芭蕉翁生家」にあったものです。(2015年)「芭蕉翁記念館」には芭蕉が自ら書いたという献立表があり、生家の方には、膳のレプリカがありました。品数が多かったです。それを地元の食材で再現した膳だそうです。そういうことも伊賀上野から山形まで飛んできていたのですね。

えんぴつで書く『奥の細道』から(5)

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芭蕉は松島から平泉へ向かいますが途中で道に迷って石巻という港に着いたとしています。<つひに道踏みたがへて石の巻といふ港に出づ> 江戸時代の石巻港は東北でも有数の港で迷うということはないはずで、これは創作的表現で道に迷って着いたところがにぎやかな港であったとの驚きを加味したのだろうとのことです。

そして平泉。

⑤夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡 / 五月雨(さみだれ)の 降り残してや光堂

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』では義経終焉(しゅうえん)の地とされる高館にある義経堂(ぎけいどう)を訪ね、その後で中尊寺にむかいます。芭蕉と同じ道です。

義経堂は高館の山頂にあり途中古戦場跡と北上川がみえます。

義経は、藤原秀衡によって鞍馬寺からこの平泉に招かれます。それは秀衡がこの地で戦い抜いたとき助けてくれたのが陸奥守であった源義家だったのです。その子孫が義経です。兄頼朝が旗揚げしたとき秀衡は臣下の佐藤継信、忠信兄弟を義経に随行させました。そして平家を倒してのち、兄に追われる身となった義経をうけいれました。

義経が到着して8か月後秀衡は亡くなります。次の泰衡の代となり頼朝の圧力に負けて義経を邪魔ものとして奇襲するのです。そしてこの地で義経31歳で終えるわけです。しかし頼朝は奥州が欲しかったので奥州藤原は滅びてしまいます。

< 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るままで涙を落としはべりぬ。 夏草や兵どもが夢の跡  >

義経堂は芭蕉が来訪した6年前に建立され義経像もその時にまつられたものだそうです。何もかもなくなっている地にこの堂と像を拝観した芭蕉は涙ししばし立ち去れなかったのでしょう。

奥州藤原三代の仏教を中心とする文化圏は世界遺産として登録されましたので跡地に復元がなされたりして芭蕉の見た風景と今とは随分と違っているとおもいます。私も二回目訪れの時は歴史的奥州の姿をバスガイドさんやボランティアのガイドさんによって多くを知らされました。

芭蕉の訪れた頃は中尊寺一帯も1126年の火災で様変わりし変わらないで残っていたのが金色堂でした。金色堂は芭蕉さんの時には荒廃をおそれて木造の堂で覆われ、その中に美しい姿をたもってくれていました。< 千載の記念とはなれり。 五月雨を降り残してや光堂  > 雨が避けてくれて残ったような光輝く堂だったのです。

今はコンクリートの覆堂で旧覆堂ものこされています。須弥壇には初代藤原清衡、2代基衡、3代秀衡の遺体が納められています。4代泰衡は御首級(みしるし)が納められているようです。

この金色堂も1962年(昭和37年)から7年間解体修理されます。その様子を映像で観ることが出来ます。努力を惜しまない根気と素晴らしい技術の結集です。

この映像で高館から中尊寺まで雨の中歩かれた黛まどかさんと榎木孝明さんの道筋がわかりました。高館には行っていないので歩きたかったです。

よみがえる金色堂(フルHD)|配信映画|科学映像館 (kagakueizo.org)

平泉の文化はかつて京の都から匠たちが集結して作り上げられました。そこから残った金色堂は再び未来をめざして再現されたのです。この時の中尊寺貫主は今東光さんでした。

西行はこの地で桜を見て吉野の桜に並び称されると歌っています。 <きゝもせず 速稲山(たばしねやま)のさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは>

芭蕉も当然ここで桜を見ることを望んでいたでしょうが桜に関しては何も書いていません。それはもっと先で思いがけない場所での桜との出会いがあるのでそれを強調するために見ていても記さなかったのかもしれません。

秀衡は子供たちに義経を大将にして奥州を守り通すようにと遺言を残します。その遺言を守ったのが三男の忠衡でした。彼は遺言通り義経を守りますが、23歳で力尽き亡くなっています。その忠衡が寄進した鉄の宝燈「文治灯籠」が塩釜神社の社殿の前にあります。当時のものではありません。芭蕉は忠衡の戦死を知っていたので、「文治灯籠」の前で言葉を尽くして彼を讃えています。

芭蕉の中では義経の周囲の人々のことも構図としてとらえられていたのでしょう。

追記:       

        一面満開の桜もいいですが

      こんな桜も愛おしい

えんぴつで書く『奥の細道』から(4)

白河の関から進みますが、次の目的地塩釜松島は『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の録画がありませんので、私の旅と本からたどって行くことにします。

檜皮(ひわだ)で芭蕉は安積山へ向かい「かつみ」の花を探しますがみつかりませんでした。今は安積山公園となっていますが私は残念ながらここへは行っていません。同じ郡山として開成公園そばにある「開成館」と「こおりやま文学の森資料館」の地図をのせておきます。歴史と文学に興味ある方は参考にされてください。

二本松では、芭蕉は歌舞伎に興味のある方ならご存じの「黒塚」を訪れます。

黒塚 | 二本松市観光連盟 (nihonmatsu-kanko.jp) 

二本松は『智恵子抄』の高村智恵子の生まれたところでもありますので興味があればこちらもどうぞ。

高村智恵子 | 二本松市観光連盟 (nihonmatsu-kanko.jp)

芭蕉は、<「かつみかつみと」と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右に切れて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。>そして向かったのがしのぶの里の『文知摺石(もぢづりいし)』で歌枕にもなっています。ここは私的な旅でご案内。

長野~松本~穂高~福島~山形(3)

芭蕉は『文知摺石』をみてから『医王寺』にむかいます。飯坂温泉の近くだそうです。ここからは知らないことでしたので魅かれました。藤原秀衡に仕えた佐藤基治一族の墓が『医王寺』にあるのです。芭蕉は義経びいきです。その義経のために戦って死んだ基治とその息子二人の墓に手を合わせます。息子二人とは継信と忠信です。忠信といえば歌舞伎好きには狐忠信が浮かびます。『吉野山』、『四ノ切』(『義経千本桜』四段目)。

さらにこの二人の嫁が息子の死を悲しむ姑を慰めるために、亡き夫の甲冑をつけて「ただいま今凱旋」と声をかけ凱旋姿として見せたのです。この話に芭蕉は涙します。

松尾芭蕉ゆかりの地|真言宗豊山派瑠璃光山 医王寺 (iou-ji.or.jp)

この嫁の甲冑姿をのこしているのが白石の田村神社の境内にある甲冑堂です。田村神社といえば坂上田村麻呂が祭神です。となれば『阿弖流為(アテルイ)』です。いえいえお嫁さんの話でした。継信の妻の名前が楓、忠信の妻の名前が初音です。初音とは驚きです。狐忠信が慕う鼓の名が初音の鼓。芭蕉さんいろいろなところへ連れて行ってくれます。

しろいし観光ナビ (shiroishi-navi.jp)

芭蕉は、仙台では伊達家や政宗ゆかりの神社仏閣を訪ねています。私は青葉城跡だけですので進んで塩竈松島にむかいます。

でこぼこ東北の旅(4)『伊勢物語』

芭蕉が松島の月が心にかかり『奥の細道』の旅を思い立ったのですが、松島では宿の二階から見事な月と松島をめでたのです。松島の風景を賞賛していますが句ができなくて眠れない夜となりました。

④松島や 鶴に身を借れほととぎす(曾良)

松島は鶴が似合っているからホトトギスよ鶴の姿を借りるほうが良いだろうということです。声のよいホトトギスも松島の美しい姿にかなわなくて声も出なかったとするなら、句作できなかったホトトギスは芭蕉のことにも思えます。曾良の句が面白いと思った芭蕉がそこにいるような気がします。

今回は観光案内と自分の旅の紹介が多く登場することになりました。次の旅もつながっていました。

司馬遼太郎 『白河・会津のみち』

能 『融(とおる)』

さらに文楽の『義経千本桜』の四段目「川連法眼館(かわつらほうげんやかた)の段」はどうなるのであろうかと思いましたらユーチューブにありました。嬉しいですね。思ったらすぐ観ることができたのですから。歌舞伎とは違うこれまた斬新な演出でした。

芭蕉さん、にぎにぎしい旅で申し訳ございません。

えんぴつで書く『奥の細道』から(3)

奥の細道』に関係なく個人的に行った旅から、鹿沼今市日光を通り白河の関へと向かいます。白河の関の手前で『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』から紹介したいところを案内します。

鹿沼は、『奥の細道』には出てきません。『曾良旅日記』にでてくるようです。『奥の細道』と『曾良旅日記』をくらべつつ進むのがいいといわれるかたもいますが、手に負えませんので一つで進みます。

鹿沼       木のまち鹿沼(1)   木のまち鹿沼(2)

今市の杉並木   鬼怒川温泉と日光杉並木

芭蕉のこの旅は歌枕の地を訪ねる、その場に実際に立つというのが目的でもありました。歌枕とは、古くから人々が訪れ和歌を詠み、その土地が和歌に詠いこまれるようになって有名になり名所、旧跡となったところです。芭蕉がこの旅で初めて訪ねた歌枕の地は今市宿に向かう途中にある室の八島です。ここで初めて曾良が登場します。

私たちは同行したのが曾良だっとということを知っていますから最初から曾良が頭にありました。ところが芭蕉は『奥の細道』での曾良の登場も文学的計算に入れていたようにおもわれます。室の八島にある大神神社の由来を曾良に語らせてのさりげない登場です。

日光に関しては記録していませんので、行かれた方も多いのでご自分の旅の中で想像してください。東照宮への参道が今市付近から日光の神橋までの30キロメートルにおよぶ杉並木なのです。日光の東照宮は今のように自由に拝観できませんでした。芭蕉も紹介状を持参していました。

裏見の滝を見、含満ゲ淵(かんまんがふち)から日光を後にします。当時、華厳の滝を眺められるような場所はなく、裏見の滝が歌枕となっていました。

日光で驚いたのは日光駅から小杉放菴記念日光美術館まで歩いた時、途中から霧がたちこめてあっという間に前後が見えなくなったことです。日光の自然は軽く考えてはいけないなと思わせられました。

黒羽では弟子や俳諧仲間も多く長く逗留しています。名所、旧跡も訪れていますが特に雲厳寺には思い入れがあったようです。深川で親交のあった臨川寺・仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)が修行し山ごもりしたお寺だったのです。

やっと『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の映像を参考にさせてもらいます。黛まどかさんは『奥の細道』は、何度も訪れているそうで、芭蕉さんの追っかけかもと言われています。榎木孝明さんは初めてで楽しみにされています。

お二人の一回目の行程です。(NHKの放送画面からです。)

遊行柳→ 境の明神→ 白河の関

一面田んぼの中に立つのが遊行柳歌枕です。黛さんも芭蕉は歌枕を訪れるのが重要な旅の目的の一つであったと。ここで芭蕉が敬愛する西行が詠んだのが「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」です。現在から芭蕉の『奥の細道』までが330年まえで、そこから西行の時代が500年まえ、私たちは800年前まで時間を経過させているんだと黛さんと榎木さんは感慨深げでした。『奥の細道』はかなたの時間空間への架け橋となってくれてもいるわけです。

関東と奥州の境です。このように国境の境をはさみ神社が並んでいてこの二社を境の明神と呼びます。

いよいよ白河の関です。芭蕉がたどり着いたときこの関は忘れ去られていてはっきりしなかったようです。白河神社があり芭蕉が訪れた100年後、白河藩の藩主は松平定信で今の場所を白河の関跡と定めました。その松平定信のお墓が『奥の細道』に出立した場所の近くにあるというのも奇遇です。

遠い過去に、郡山の知人にこの関に連れてきてもらいました。こんな立派な石柱もなく木々におおわれた凄くわびしい寒々とした場所でした。今想うと古関跡にふさわしかったのかもしれません。

③卯の花を かざしに関の晴れ着かな(曾良)

古人はここを通るとき、冠をかぶり直し、衣服を改めなおしたんだそうです。曾良はそんな改まった衣服もないのでせめて卯の花を飾りにして晴れ着としましょうとしています。奥州の地に対する古人の尊厳さが感じられます。

歌枕の場所に立って古人を偲ぶだけではなく、芭蕉は古人の歌に挑戦もしたのではないかと想像していたのですが、和歌や俳句の理解力が乏しく勝手に思っていただけです。

中西進さんの『詩心ー永遠なるものへ』の中で、遊行柳にむかいての芭蕉の句「田一枚植ゑて立ち去るやなぎかな」が「西行を相手とした勝負に、芭蕉は見ごとな一石を打ったのである」とされています。

こちらはそういうことなのかとその分析を新鮮なおもいで心に留める程度の力しかありませんが、和歌や短歌や俳句に親しんでいる方は『詩心ー永遠なるものへ』を直接読まれるともっと深く感じとられることでしょう。

能にも『遊行柳』がありました。広がりますがここで立ち去ることにします。

    

えんぴつで書く『奥の細道』から(2)

奥の細道』への旅に出てみます。赤丸は芭蕉さんと関係なく私が行ったところです。

芭蕉は江戸深川から舟で千住にむかいます。

芭蕉稲荷芭蕉庵跡とするなら、芭蕉はそこから弟子の杉山杉風(すぎたさんぷう)の別荘 採荼庵(さいとあん・さいだあん等の読み方あり)に移動しそこから舟で千住へむかったのです。杉風は幕府御用魚問屋で、深川で芭蕉が庵をむすぶ手助けもしていて、こうした金銭的余裕のあった弟子たちがかなりいたと思われます。江戸にいれば芭蕉は弟子たちに囲まれ安定した俳諧師として暮らせました。それなのになぜ漂泊の旅にでたのでしょうか。

上記地図の赤丸の清澄庭園は紀伊国屋文左衛門の屋敷跡です。同じころ一方では贅沢三昧の生活もあったわけです。今の清澄庭園は三菱財閥の岩崎弥太郎が造園した庭園がもとになっています。その下に松平定信のお墓のある 霊巌寺 。松平定信も白河の関で登場しますのでご記憶を。

その下に深川江戸資料館。ここは江戸庶民の生活を実体験できるような展示があり楽しいところです。

芭蕉が深川の庵に落ち着くまでどんな経過をたどったのでしょうか。田中善信さんの文「芭蕉の係累を探る」よりますと、芭蕉は伊賀国上野赤坂の生まれです。29歳のとき江戸にでてきます。日本橋大舟町の名主・小沢太郎兵衛のもとで働きます。公務の記録係りですが、名主の仕事の代行もしていたであろうといわれます。芭蕉は太郎兵衛の借家から通っていました。

江戸の人々の飲料水は「神田上水道」から供給されていました。この露天部分にはゴミなどがたまり、それを一年に一回掃除したり修復する請負の仕事がありました。この請負人の名前に桃青(芭蕉の別号)の名があるんだそうです。この仕事は名主クラスの人が請け負っていたので、芭蕉はかなりそうした実務能力を兼ね備えた人だったようです。

俳諧師としてではなく生きて行けた人だったのかもしれません。

しかし芭蕉は俳諧師の道を選びます。深川に移り住んでこの請負の仕事をやめます。人をまとめたり、上の人と上手くやっていける人だったわけです。気の回る人だったようにおもえます。当時の旅は、それぞれ別の国ともいえる藩に入っていくのですからそれなりの政治的な気の使い方が必要だったとおもいます。そういう配慮もできた人だったのでしょう。

ただこの配慮は自分が俳諧に集中できるために他の邪魔が介入しないためともとれます。この旅ひとつとっても俳諧に向き合う気持ちは頑固で一途なところがみられます。

不易流行(ふえきりゅうこう)」

趣味悠々のテキストから解釈が納得できたのでそれを引用させてもらいます。「いつの時代にも変わらないものと時代とともに変化するものがあるが、それは別々のものではなく、表裏一体のものであるということ。」

この旅に随行したのが弟子の曾良でした。ほかに第一候補者があったようですが、その弟子は目立ちたがり屋で高弟たちが反対し曾良にかわったようです。曾良が記録した旅日記『曾良旅日記』が1943年(昭和18年)に発見され、芭蕉の『奥の細道』がかなり文学的フィクションが加わっているということがわかったのです。これはある意味芭蕉の新しい試みでもあったということがわかったということでもあり、曾良が随行でよかったということでもあります。

さて深川から隅田川を千住まで舟で向かったのは1689年(元禄2年)芭蕉、46歳の春です。今は隅田川水辺テラスの整備が進んで、隅田川のそって歩いて千住大橋まで行けます。反対に舟では行けないのです。

德川家康が江戸入府後、隅田川に初めてかけられたのが千住大橋です。ここから日光街道です。

千住大橋は歌舞伎では『将軍江戸を去る』が思い浮かびます。芭蕉の門人の其角は『松浦の太鼓』で赤穂浪士・大高源悟と両国橋で討ち入り前夜に会っています。芭蕉さんの知らない後の世のことです。

①草の戸も 住み替はる代ぞ雛(ひな)の家

芭蕉のわび住まいの家に次に住む人はお雛様を飾るであろうというのが可愛らしいです。

②行く春や 鳥啼き魚の目は涙

魚の目にまで涙を思い浮かべるとは、この別れがもしかして最後かもという覚悟と心細さが伝わりますが現代ではアニメ風にも想像できます。

現実的には厳しい旅の道であったことがわかります。

追記:  採荼庵跡   右脇の青い矢印の所に芭蕉俳句散歩道があります。

えんぴつで書く『奥の細道』から(1)

整理しているといろいろ出てきました。「えんぴつで書く 『奥の細道』」。100均の商品ですがなかなかのもので、現代語訳からひとくちコラムでは語彙の説明や名所の説明、歴史上の人物などの説明もしてくれています。これで税込み105円とはおそれいります。この商品はもう発売されていないようです。

さらにさらに、NHKでやっていた『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の録画もでてきたのです。ただ2回目だけは録画を忘れたようで残念です。というわけで『奥の細道』の世界にもぐりこんでおります。もちろん鉛筆でなぞりました。

下記の行程を150日間での旅でした。

鉛筆書きする箇所はよく知られている俳句の出てくる段を選んでいます。(地図上の青丸)

①発端・深川  ②旅立ち・千住  ③福島県・白河の関  ④宮城県・松島  

⑤岩手県・平泉  ⑥山形県・立石寺  ⑦山形・最上川  ⑧秋田県・象潟

⑨新潟県・越後路  ⑩新潟県・市振  ⑪岐阜県・大垣

①草の戸も 住み替はる代ぞ雛(ひな)の家

②行く春や 鳥啼き魚の目は涙

③卯の花を かざしに関の晴れ着かな(曾良)

④松島や 鶴に身を借れほととぎす(曾良)

⑤夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡 / 五月雨(さみだれ)の 降り残してや光堂

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

⑦五月雨を 集めて早し最上川

⑧象潟や 雨に西施(せし)がねぶの花 / 汐越や 鶴脛(つるはぎ)ぬれて海凉し

⑨文月や 六日も常の夜には似ず / 荒海や 佐渡に横たふ天の河

⑩一つ家に 遊女も寝たり萩と月

⑪蛤の ふたみに別れ行く秋ぞ

趣味悠々のほうの放送内容は鉛筆で書く場所といくつか違っています。(地図上黄色丸)案内の旅人は、俳人の黛まどかさんと俳優の榎木孝明さんで、榎木さんは水彩画の画家でもありますから、旅の場所でのスケッチも披露してくれました。黛さんはメモをとられて放送時には一句紹介してくれます。

①福島県・白河の関  ②宮城県・塩竈松島  ③岩手県・平泉  ④山形県・尾花沢

⑤山形県・立石寺  ⑥山形県・最上川出羽三山  ⑦山形県・鶴岡/秋田県・象潟

⑧新潟県・出雲崎親不知市振  ⑨福井県・敦賀

芭蕉は酒田から市振の関までの九日間は暑さと湿気で体調を崩し旅の記述をしなかったとしています。市振について、今日、親不知子不知(おやしらずこしらず)の難所を越えたと記しています。

二つの『奥の細道』に触れて、やはり全部の旅の過程を知りたくなります。まずは現代語訳からはいります。参考本が種々ありますが、作家・森村誠一さん監修の『芭蕉道への旅』が読みやすそうなので森村さんの現代語訳でよみました。旅をしているとどこへ行っても芭蕉の句碑で食傷気味になりますが、文と併せて読むと旅の醍醐味があります。

歴史上の事柄、かつての人々が歌枕としてあこがれた場所、西行、能因法師など実際に先人たちが歩いた場所での芭蕉の想いなどをもう少し知りたいなと『奥の細道』に分け入っています。