歌舞伎座 八月納涼歌舞伎 『怪談乳房榎』 

『怪談乳房榎』は、三遊亭圓朝さんの怪談噺がもとである。怖いというよりも、三役早変わりなので、その妙味を味わい楽しむといった芝居である。勘九郎さんが奮闘三役早変わりで、いえ四役でした。最後は圓朝さんになってでられた。

この演目アメリカのニューヨークでも上演され大成功でその凱旋記念公演でもある。また、勘三郎さんが、三世実川延若さんから直接教えを受け、勘太郎さんは父・勘三郎さんから習い受けたという経緯のある演目である。本水も使い夏に相応しい出し物である。

ところが、私の見方を変えなくては、早変わりは楽しめなくなっている。今代役が出て引っ込んで、今度は勘九郎さんで、また引っ込んで、今走っているな。次は花道からだな。花道での早変わりはちょっと減点である。などと頭の中で動いてしまうのである。隣のかたは、「えっ!どうしてなの。凄い!」と楽しんでいて羨ましいかぎりである。一番困るのが、形を決める時、そこまでに行く過程で代役さんの身体の動きを見ていて、勘九郎さんでは無い身体が間にはいることによって、その流れが中断され決まった時の思い入れが出来ないことである。近頃とみにこのブツブツ感があり、自分の中でどう処理しようかと思案中である。

菱川師宣(勘九郎)という絵師がいて、この妻・お関(七之助)が大変な美人で二人の間には乳飲み子の真与太郎がいる。この二人には下男の正吉(勘九郎)が正直者で忠実に仕えている。美しさゆえにお関は酔っ払いの花見客にからまれ助けてくれたのが、浪人・磯貝浪江(獅童)で、浪江は最初から下心があり、重信の弟子にしてもらう。重信は頼まれた寺の天井絵を描くために、夜出かけてゆく。浪江はこの時とばかり、お関に言い寄り叶えられなければ真与太郎を殺し自分も死ぬと真与太郎を人質に取り、望みを叶えてしまう。

浪江の前に、悪事を働いたころの家臣・三次(勘九郎)が現れ浪江をゆするが、浪江は三次に金を渡し仲間にしてしまう。、次に酒の好きな正吉に酒を飲ませ、重信を誘い出させ殺害し、正吉にも重信殺しの片棒を担がせる。死んだはずの重信は、雌雄の龍の絵に眼を書き込むだけとなっている寺に戻っていて、両眼を描き入れると消えてしまう。

浪江は重信の後を継ぎ、お関が浪江の子を身ごもり乳が出なくなり泣きぐずる真与太郎が邪魔となる。正吉の親戚に里子に出すと言う事にして、正吉に真与太郎を殺すことを命ずる。正吉は、真与太郎を助けようと思うのだが、大きくなって浪江に感づかれ殺されるよりも何も知らないうちのほうが苦しみもないだろうと、滝壺に落とすのである。それを拾ったのが、重信の亡霊で、真与太郎を助けて育て怨みをはらせればお前を許すと言われ正吉は真与太郎を育てる決心をする。そこへ、浪江から正吉と真与太郎を殺すように言われて三次が現れ、滝壺の中でのもみ合いとなる。ここが、悪人三次と気が弱いが必死の正吉との見せ場である。三次は重信の亡霊によって滝壺へ引きずられ、正吉は必死で真与太郎を抱え花道を走るのである。

勘九郎さんは、絵師菱川重信、正吉、三次の三役を早変わりしこの物語をかたち作るのである。鷹揚な重信と亡霊重信、正直者だが物事の判断が段々つかなくなっていくが自分に目覚める正吉、悪事を悪事とも思わない三次、この違いを入れ替わりつつ演じわけるのである。この演じ分けも前半は際立つがやはり早変わりが始まると薄れてしまう。

この三次は、圓朝さんの噺には出てこない人物で、歌舞伎のために加えた人物である。どのように加えたのかしりたいので、圓朝さん『怪談榎乳房』を読んだところ、これが語り口がよく気持ちよく読めるのである。そして江戸の風景も描かれている。

滝壺は、『江戸名所図会』にも出てくるという角筈村(つのはずむら)の十二社(じゅうにそう)の大きな滝であったようだ。ここでの立ち回りを考え三次を登場させたように思う。この滝の表現が月明かりの中、正吉の気持ちと重なって良い場面である。そこに歌舞伎として動きを考えても不思議はない。

この後、圓朝さんになって勘九郎さんが出てきて、見事仇討ちを果たし、赤塚村の乳房榎の説明となるが、いままで動きのある芝居を目で見ているので、耳だけとなるときちんと理解するのは容易ではない。なんとなくそうかと納得させられる。<その後の正吉、真与太郎について詳しく知りたい方は、話が長くなりますので、機会がありましたらまた次のお時間に>ということにしておく。

獅童さんと七之助さんコンビ、どうも男女の味わいが薄い。三次の悪役が設定されたので、浪江は色悪でなければならないのであろうか。その辺がわからない。登場人物の解釈が甘いように思う。

芝居から少し離れるが、圓朝さんのことで安藤鶴夫さんが、「明治17年の<怪談牡丹灯籠>の出版は当時の文学者に言文一致という、まったく画期的な示唆を与えることになった。」といわれているが、納得できた。二葉亭四迷がどのように文章を書こうかと迷い坪内逍遥先生に聞いたところ「君は圓朝の落語を知っていよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たらどうかという。」(明治39年『余が言文一致の由来』)と記している。当時は、これが落語という話言葉だったから今と当たり前の文章なのである。誰かが語っているという設定の小説を読んでいる気分であった。圓朝さんがいなければ、言文一致はもっと遅れていたのかもしれない。

そして、『怪談乳房榎』のゆかり町巡りが出来そうである。