『文楽の人より 吉田文五郎』(織田作之助)

織田作さんの芸道ものである。実在された文楽の吉田文五郎さんが自分で語るかたちで書かれている。文楽の人形遣いの師匠の厳しい指導と、76歳になって振り返っての感謝の気持ちとを語りつくしている。

大阪では良家の坊ン坊ンでない限り、子供のころから奉公に出るのが当たり前で文五郎さんも11か12の時奉公に出る。しかし辛さもあって奉公先を23軒も変えている。父親も商売がうまくいかず、文楽座の表方の手代のような仕事についていたので、最終的には、文楽座の吉田玉助さんに弟子入りする。三年下働きをして、次が黒衣(くろこ)を着て足遣いである。

「足遣いは主遣いの腰に身体をすり寄せて、右腕をその腰に当てるようにして置いて、主遣いの腰のひねり方ひとつで、ああ、右足を出すのんやな、左足を出すんのやな、座るのんやな、うしろ向くんのやなと、その時その時に悟るんです。」

玉助さんの父親・玉造さんが戻り駕籠の浪花次郎作を遣ったとき足遣いをして、四日間舞台下駄で蹴られ、血が流れ肉がはみ出し、文五郎さんは決心する。

「・・・ポンポン蹴られてたまるかい、こんど蹴りやがったら、もう師匠とも親玉とも思わんぞ、こっちも蹴り返して、逃げてこましたろ」こない決心して、次の日は、親の仇討に出る気持ちで、うんと力こめて、血相かえるくらいにして遣いました。すると玉造はんは、「よっしゃ。でけた」と、こない小声で言うて眼で笑うてくれはりました。びっくりしました。その時の気持ちは、なんともかともいえん嬉しゅうおました。・・・きっと極まる場所が、毎日一分一厘も狂いまへん。・・・それをわてがええ加減なところで足を極めようとしたんでっさかい、怒りはったんです。」

そして師匠の修行時代の話も語ってもらい文五郎さんは、60年間一筋に人形遣いの道を歩くのである。

「贅沢な暮らしみたいなもんしよ思ても一日も出来まへなんだ。考えてみたら暗い道だした。けど、その暗い道を阿呆の一つ覚えに提灯とぼして、とぼとぼ六十年歩いて来ましたんだす。」

織田作さんは、文五郎さんに作品の中で淡々と驕ることのない語り口で語らせ、提灯の灯りをつける思いがあったからこそ灯りもついてくれ、足元を照らしてくれた事を伝えてくれる。

『芸十夜』(八代目三津五郎・武智鉄二対談)の芸七夜には、文五郎さんのことも話されるが、文五郎さんよりも栄三さんのほうがお二人は上手いと思われている。栄三さんは眉間に傷があったそうで、修業の傷であろう。「喜内住家」(太平記忠臣蔵講釈)で忠義のために夫・重太郎が子供を殺してしまうが、この重太郎のような役の時は泣かないでは人形を遣えないが、「それが顔出してると泣けませんので、泣かんと遣うてますから、あきまへん」とある。武智さんは、写真家・土門拳さんの写真に栄三さんの「重太郎」が子供を殺す瞬間に涙を流しているものがあるという。栄三さんのは見ていないが、文五郎さんの「寺子屋」の千代を遣われている写真などの千代はとても美しい形になっている。

信州の佐久穂町にある「奥村土牛記念美術館」に文楽人形があって、係りの方に尋ねると、文五郎さんが使われていたものですと教えてくれた。土牛さんは、「文楽人形(お染)」(昭和29年)を描かれていて美術書には「お染のカシラとしてごく古いものという。頭の格好、顔の彫の深さなど、今出来のものと別の感じがする。文五郎が使ったものと聞いた。」とある。おそらく記念美術館にあった文楽人形が描かれた人形と思う。土牛さんは大変気に入っていたようである。絵は、お染の横向きの上半身で、顔の白さと赤を基調にした鹿の子の着物と帯で、後ろから遣われるため身体はふくよかで厚みがあり、人に支えられないときの人形の意思が感じられる。人形で動けないのに、動かすならきちんと遣ってくださいなとでも言いそうである。やはり飾ってながめる人形や抱く人形より遣う人形のほうが手強そうである