映画 『Frances H フランシス・ハ』(2)

この映画の中で、かつての映画音楽が使われている。パンフレットに次の作品が紹介されていた。

フランソワ・トリュフォー監督『私のように美しい娘』『大人は判ってくれない』『家庭』、フィリップ・ド・ブロカ監督『まぼろしの市街戦』、レオス・カラックス監督『汚れた血』、ジュールズ・ダッシン監督『夜明けの約束』

私が観ているのは『大人は判ってくれない』で、その中の音楽がどんなだったかなんて記憶にない。『汚れた血』の中で使われた、デヴィット・ボウイの「モダン・ラブ」をバックにフランシスは走り出す。ここの場面も見ものだが、音楽がなんであるかなど聞き分けてはいない。ただ、フランシスの気持ちと合っているということだけである。

デヴィット・ボウイは音楽より、映画『戦場のメリークリスマス』と夭折したアメリカの画家『バスキア』のアンディ・ウォーホール役のほうが印象的である。

監督のノア・バームバックには、<ヌーヴェルヴァーグへのオマージュ>が、色濃く反映したようだ。

映像としても、フランシスがパリで逢おうと思った友人とも逢うことが出来ず、セーヌ河畔を歩く姿は、モノクロのためヌーヴェルヴァーグの味がある。その淋しさが、いつものフランシスとは違う哀愁があり、少し大人の雰囲気がある。ニューヨークとパリの違いでもある。この雰囲気が、ニートのフランシスに、「良いではないか。パリの夜を独り占めしたと思えば。」と言いたくなる。たとえお金がなく美味しい物が口に入らなかったとしても、ライトに浮かび上がる奈良の興福寺の夜の五重塔を前にすると、ゴージャスな気分になる。人も少なくひとり占めと思う。少し外れにある三重塔のほうが形としては美しいが。

その後、ニューヨークに戻りタクシーの中で、友人から「留守をしていたから今夜食事をしよう」のメッセージには笑ってしまう。いつものフランシスの世界が始まった。こういうところが、脚本の上手さである。

セーヌ河畔と云えば、ここでタンゴを踊る『タンゴ・レッスン』を思い浮かべる。そうだ、録画があるはずだ。サリー・ポッター監督の『タンゴ・レッスン』とフランソワ・トリュフォー監督の『突然炎のごとく』を見直そう。やはり、観た映画もまめに録画しておいたほうがよさそうである。

ノア・バームバック監督の『イカとクジラ』は、レンタルでありそうである。レンタルショップで見つける。この作品、何度か手にして見て戻している。賞も沢山取っていて優秀な作品と思うが観る気が起らなかったのである。この監督の映画であったのか。この際だから観ることにする。予想は当たった。俳優の演技が細かい。家族四人。両親は離婚する。出だしから、父派(長男)、母派(次男)と分かれているのがわかる。父と暮らす日と母と暮らす日が親権により半分に分けられている。次第に子供たちの精神の不安定さの揺れが激しくなっていく。結末の予想としては、二人の兄弟は自立していく方向が見える。

この監督の場合、流れる音楽(複数の歌)と、住む場所が重要な役割をしていて、たとえば、日本でいえば、下町と山の手のような風景も感じ取らなければならないが、こちらはわからない。歌の歌詞も。そのため、上手い俳優の神経ばかりが伝わり疲れてしまう。ウィリアム・ボールドウィンのテニスコーチがそこを少し和らげてくれるが。父がジェフ・ダニエルズ。母がローラ・リニー。長男が、ジェシー・アイゼンバーグ。次男は新人で、この子がまたいいのだ。父の教え子にアンナ・パーキンスで『ピアノ・レッスン』の娘役を演じたあの方である。登場人物に対し色々なとらえ方のできる映画である。ただ、こういう状況の兄弟の心理をここまで繊細に表した映画は少ないかもしれない。<イカとクジラの争い>が作り物であるというところが、題名『イカとクジラ』のキーポイントなのであろう。

フランシスのほうが転んでも血を流しバンドエイドですむ。『フランシス・ハ』。