大阪と江戸

司馬遼太郎さんの文『政権を滅ぼす宿命の都』は、色々な面で疑問だったことにこたえてくれた。『政権を滅ぼす宿命の都』とは<大阪>を指している。摂津ノ国を大阪に入れるとして、京から摂津沿岸への福原遷都を試みたのは平清盛である。中国との貿易を考えてであったが、清盛の死によって都が京都に戻されてしまう。

その後、大阪湾を根拠地としたのは、蓮如である。蓮如は親鸞の血筋であり、「つまり本願寺は親鸞によって興ったのではなく親鸞の教団否定の遺訓を無視してこの宗祖の名をかつぎまわった蓮如によって興ったのである。」蓮如は妻帯僧で六、七十人の子がありそのうち二十七人は成人したと言われているらしいが、これくらいの体力がなければ、全国組織を完成させられないとしている。この蓮如が根拠地とした石山本願寺の石山城は、大阪城の基である。

この石山本願寺と対決したのが、信長である。十数年の武力闘争の結果、本願寺は紀州へ退く。信長は石山城を手に入れる。「蓮如が発見し信長が再発見した大阪は、なるほど甫庵(ほあん・医者として関白秀次につかえた伝記作者)がいうように宝石のような土地であるかもしれないが、ここに腰をすえようとした権力は不思議に薄命である。」大阪を手に入れた二年後に信長は本能寺で亡くなる。

その後が秀吉である。秀吉は長浜城や姫路城に帰らず大阪城を築城するのである。そうであったのか。どうして大阪城のなかに石山本願寺があったのかと疑問であった。石山本願寺の後が大阪城なのである。しかしこの大阪城も秀吉の代で終わってしまう。そのことから<政権を滅ぼす宿命いの都>とは大阪のことを指したのである。

江戸は、家康が秀吉から与えられたもとは北条氏の領土、二百五十万石である。当時の家康の領土は三河、遠江(とおとうみ)、駿河を合わせても百万石である。しかし、政治の中心から離れている未開の土地である。秀吉は家康に城は、江戸に築くようにと薦める。司馬さんによると、秀吉は関東で東京湾北岸に江戸という漁村を発見していて、こここそが、関八州の鎮府にふさわしいと考え、家康も江戸に入部し納得したが、水の獲得に苦労させられたとある。 「大阪をお輿し、さらに江戸を発見してこのふたつの都市を日本の東西文化の二大頂点にした最初の着想者は秀吉であった。経済にせよ、こういう点にせよ、近世日本の骨格をつくったのは秀吉であり、家康とその後の徳川政権はそのみがき手であったにすぎない。」「徳川政権は政治を江戸へもって行ったが、経済だけは大阪にのこした。」大阪と江戸の役目が別になったのである。

司馬さんは連れの方と大阪城から高津ノ宮を通り聖徳太子のたてた四天王寺まで歩いて、夕陽ケ丘に立って茅渟(ちぬ)ノ海に落ちる夕陽をながめている。しかし「芭蕉もここであそび、名句をつくった。が、いまは茶屋もない。媒霧で、夕陽もない。」と書かれている。 織田作さんに誘われて歩いたところが、大阪と江戸の話につながるとは、楽しい。

そして、『芸十夜』(坂東三津五郎・武智鉄二)の<十夜>にも四天王寺のことが出てくる。『摂州合邦辻』の俊徳丸の日想観にふれていて、<四天王寺は日想観のためにできたんですからね>と強調されているが、詳しく説明がないので、床本を読まなくてはならないが、どうも国立劇場の上演の時、俊徳丸の日想観の部分を削ったということではないかと思う。日想観とは、陽の沈む方向にある浄土を想う心といったことであろうか。これは、何かの折りに調べてみたい。日想観の有無は俊徳丸を理解するうえで重要なことのようである。

<合邦庵室の段>の最後、床本によると「仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦が辻と、古跡を留めけり」とある。

検索してみると「摂州合邦辻閻魔堂西方寺」とある。ここもピンを指しておこう。

 

映画 『破れ太鼓』

『舟木一夫特別公演』の芝居『八百万石に挑む男』に出演されてる役者さん達の中に大スターの血筋の方がおられる。田村亮さんは、阪東妻三郎さんの息子さん。長谷川稀世さんは、長谷川一夫さんの娘さん。その娘さんの長谷川かずきさんも出られていて長谷川一夫さんのお孫さんである。親の七光りという言葉があるが、七光りがいつまでも通用する世界ではないので、それぞれの道を切り開かれての今である。 長谷川一夫さんの映画については数本書き込みしているが、阪東妻三郎さんの映画の書き込みがなかったので『破れ太鼓』を。

この映画は木下恵介監督で阪妻さん(阪東妻三郎さんの愛称として素敵だと思うので使わせていただきます)には、珍しい現代ものの喜劇である。この映画は、阪妻さんとは関係なく、その周辺で面白い現象を起こしているのでその話から。 川本三郎さんと筒井清忠さんの対談『日本映画隠れた名作(昭和30年前後)』で『破れ太鼓』のことが出てきた。阪妻さんが演じた父親役のモデルは、映画監督・川頭義郎さんの父親がモデルとあり驚きである。高峰秀子さんは、木下恵介監督から金持ちだから川頭監督と結婚してはどうかと勧められたという逸話があり、高峰さんは松山善三監督が好きなので「あたし、金持ちアレルギーですから」「そういうところへ嫁に行くのは嫌ですよ、あたしゃ」と断っている。

高峰さん、そういえば『破れ太鼓』の出演を断っているなと思い出し『わたしの渡世日記』を読み返したらありました。<『破れ太鼓』事件>。高峰さんのところに『破れ太鼓』の脚本が届き読んでみると面白い。「木下監督の『お嬢さんに乾杯!』も原節子、佐野周二のキャラクターを実に要領よく生かした、その新鮮で巧みな演出に、私は感心するよりさきにビックリしたものである。」そして『破れ太鼓』も「文句なく面白くて、私は脚本を読みながら思わず笑い出してしまったくらいだった。」「しかし、面白いことと、自分が出演することとは話が違う。」松竹の映画に出るなら主演でなくては。実は、プロデューサーによって新東宝から松竹に売られる話が出来上がっていて高峰さんは木下監督に駆け込み訴えをする。木下監督は納得し、これで木下監督との縁もおしまいと思っていたら、その後、日本最初の総天然色『カルメン故郷に帰る』の本が届くのである。阪妻さんと高峰さんの競演も見たかった。

『破れ太鼓』には、木下監督の弟・木下忠司さんが音楽担当で、次男役で映画にも出演している。音楽家の卵でいつもピアノを弾き、頑固親父(阪妻)の歌「破れ太鼓」も作ってしまい父親の居ない時は、皆で楽しく歌うのである。津田軍平は、苦労に苦労を重ねて土建屋として成功する。豪邸も建て、当主として君臨していて、子供6人は親父を恐がりつつもそれぞれの道を模索している。(高峰さんは長女役の予定であったが小林トシ子さんに交替) 軍平の愛情は、苦労して成功した自分の生き方からの処世術で子供の行く末を思っているが、その横暴さに家族に反乱を起こされてしまう。

事業にも失敗し、苦しい時代にカレー・ライスを食べれる楽しみを糧に頑張った自分を顧み、泣きながらカレー・ライスを食べる。バックには、「破れ太鼓」の音楽が流れる。残っている次男が、ピアノを弾きつつ父親に伝える。「会社が潰れたってがっかりすることはありませんよ。お父さんはするだけのことはしてきたのですから。立派な人生です。」「わが青春に悔いなし。」「英雄おのれを知る。」「セントヘレナのナポレオン。」次男の一言一言に自信を取り戻していく阪妻さんが可笑しい。それをチラチラ振り返る次男。長男も叔母のところで始めたオルゴール制作会社が軌道に乗ったが、やはりお父さんの力が必要だと乗せる。子供達はしっかり自分の道を見つけ、父親を慰める立場になっている。

誰が捨てたか大太鼓  雷親父の忘れ物

ドンドンドドンと ドンドドン ドンドンドドンと ドンドドン

このカレー・ライス、木下監督の 映画『はじまりのみち』でのカレー・ライスを食べる真似の場面では、『破れ太鼓』を見た者は阪妻さんのカレー・ライスを思い起こす。カレー・ライスは庶民の御馳走である。

監督・木下恵介/脚本・木下恵介、小林正樹/助監督・小林正樹/撮影・楠田浩之/音楽・木下忠司/出演・坂東妻三郎、村瀬幸子、森雅之、木下忠司、大泉滉、小林トシ子、桂木洋子、宇野重吉、沢村貞子、

阪妻さんのドキュメンタリーとしては、『阪妻ー阪東妻三郎の生涯』がDVDで発売されており、タップリの剣劇映画の名シーンも見せてくれる。田村高廣さんが、『破れ太鼓』が父の素顔ではと思われているがその反対であったと答えられている。阪妻さんとは関係なく映画の外では違う「破れ太鼓」が鳴っていたようである。

 

新橋演舞場 『天一坊秘聞 八百万石に挑む男』

『舟木一夫特別公演』の芝居とコンサートの二部構成の芝居のほうである。徳川吉宗のご落胤(らくいん)と称して世を騒がせた天一坊という実在の人物がいたようで、ご落胤かどうかの詮議は定かではなく、他の罪で処刑になったようである。

この事件をもとに歌舞伎、講談、映画など様々な描き方の物語へと広がって行く。今回の舞台『天一坊秘聞 八百万石に挑む男』は、東映映画『八百万石に挑む男』(監督・中川貞夫/脚本・橋本忍/主演・市川右太衛門)を元にしていて、斎藤雅文さんが脚本を担当している。(演出・金子良次)天一坊については、ほとんど真っ白で観たのであるが、面白かった。歌い手さんの公演はコンサートもあるので、芝居には時間的制約があるが、それが効を奏して、1時間45分で休憩なしである。幕もなく<場>で進むから暗転で、その間が待たせない。そして、目は舞台の闇を見つめさせつつ、耳の方に音楽を与えるため、待たせるという感覚ではなく、まだ見ぬ次の<場>を好奇心旺盛に音楽に身を任せる。

天一坊が、徳川吉宗の子なのか、それとも偽物なのか。このところが、2転3転する。若い天一坊は、名乗り出るための後見の軍師として、山内伊賀之亮と出会う。この伊賀之亮に出会うことによって、天一坊は、山内伊賀之亮、徳川吉宗、松平伊豆守、大岡越前、の政治の渦に巻き込まれていく。それは、一人では挑めぬ徳川幕府に対する軍師・伊賀之亮と結束しての上での事であったが、伊賀之亮には、天一坊に話していない、若き日の吉宗との関係があった。そして、天一坊にも、伊賀之亮に話していないことがあり、それが露見しても崩れない二人の関係は、天一坊の育てた和尚の出現によって、思わぬ事態を生ずる事となる。

天一坊のご落胤の審議を避け、違う罪で罰しようとする松平伊豆守との<網代問答(あじろもんどう)>も見どころであり、吉宗と伊賀之亮の若き日の二人の約束の場もこの芝居に面白さを加えた。

さらに、徳川吉宗の私的な感情を思いながらも崩してはならない徳川家について、妻・りつに食事の膳で説明する大岡越前。妻・りつでなくてもよくわかる。小道具の使い方も上手い。

若い天一坊は、自分の存在価値がわからなくなる。そして伊賀之亮は、この大きな事態に今だ対応できない若者の行く末を考え、大岡の役宅を訪ねるのである。

大岡は、娘の手毬で紀州の道成寺から清姫、安珍の話へと持っていき、動かせぬ事態を伊賀之亮に悟らせ、伊賀之亮は、ことの真相を話、天一坊のことのみ託すのである。ここがあるので、吉宗と天一坊の対面では涙してしまう。伊賀之亮、吉宗、大岡の三人は立場が違っても、天一坊に対する思いは、皮肉にも同じ気持ちで結ばれる。天一坊を、もう一度野に放ち、自分の力で生きて行く道筋をつけるために。

この本は残ると思う。配役も良い配置である。

山伏とご落胤を装う変化と、変動する事態に戸惑う心の動きの天一坊を若さで演じた尾上松也さん。面白がって八百万石に挑む男が実は、果たせぬ夢を心に秘めていて、その私的な思いを天一坊に担わせた不覚を悔い、最後は自分の死に場所を見事に作る山内伊賀之亮の舟木一夫さん。登場は少ないが、伊賀之亮との事も天一坊のことも解っていても、将軍の立場を崩せぬ徳川吉宗を田村亮さん。伊賀之亮と吉宗の関係、吉宗と天一坊の関係を知っても、将軍吉宗の地位をあくまでも前面に出し、親子の対面も吉宗の個人的な振る舞いとして、そっと背中を向け見ない立場をとる大岡越前の林与一さん。

見捨てられた親子の辛さを口にし、一般の世のならいを夫に告げる大岡の妻・りつの長谷川稀世さん。自分の過ちを直接伝え心から侘びる和尚の尾上徳松さん。何んとか別件で葬り片を付けたい松平伊豆守の林啓二さん。皆さん堂に入った立ち居振る舞いで、安心して台詞を堪能し、真実が明かされていく過程を楽しんだ。この天一坊のご落胤の話に乘った人々の閉塞された社会からの脱出も伺い知れる。そして血筋とは何なのであろうかという疑問も。

一番面白いのは、舟木一夫さんが、俺がスターなんだから俺を見てくれよではなく、芝居の面白さを観てくれよ、と言っているように思える芝居であるということである。コンサートでは、どうして芝居の後にこんな声がでるのかと不思議に思える声量であった。

 

 

『文楽の人より 吉田文五郎』(織田作之助)

織田作さんの芸道ものである。実在された文楽の吉田文五郎さんが自分で語るかたちで書かれている。文楽の人形遣いの師匠の厳しい指導と、76歳になって振り返っての感謝の気持ちとを語りつくしている。

大阪では良家の坊ン坊ンでない限り、子供のころから奉公に出るのが当たり前で文五郎さんも11か12の時奉公に出る。しかし辛さもあって奉公先を23軒も変えている。父親も商売がうまくいかず、文楽座の表方の手代のような仕事についていたので、最終的には、文楽座の吉田玉助さんに弟子入りする。三年下働きをして、次が黒衣(くろこ)を着て足遣いである。

「足遣いは主遣いの腰に身体をすり寄せて、右腕をその腰に当てるようにして置いて、主遣いの腰のひねり方ひとつで、ああ、右足を出すのんやな、左足を出すんのやな、座るのんやな、うしろ向くんのやなと、その時その時に悟るんです。」

玉助さんの父親・玉造さんが戻り駕籠の浪花次郎作を遣ったとき足遣いをして、四日間舞台下駄で蹴られ、血が流れ肉がはみ出し、文五郎さんは決心する。

「・・・ポンポン蹴られてたまるかい、こんど蹴りやがったら、もう師匠とも親玉とも思わんぞ、こっちも蹴り返して、逃げてこましたろ」こない決心して、次の日は、親の仇討に出る気持ちで、うんと力こめて、血相かえるくらいにして遣いました。すると玉造はんは、「よっしゃ。でけた」と、こない小声で言うて眼で笑うてくれはりました。びっくりしました。その時の気持ちは、なんともかともいえん嬉しゅうおました。・・・きっと極まる場所が、毎日一分一厘も狂いまへん。・・・それをわてがええ加減なところで足を極めようとしたんでっさかい、怒りはったんです。」

そして師匠の修行時代の話も語ってもらい文五郎さんは、60年間一筋に人形遣いの道を歩くのである。

「贅沢な暮らしみたいなもんしよ思ても一日も出来まへなんだ。考えてみたら暗い道だした。けど、その暗い道を阿呆の一つ覚えに提灯とぼして、とぼとぼ六十年歩いて来ましたんだす。」

織田作さんは、文五郎さんに作品の中で淡々と驕ることのない語り口で語らせ、提灯の灯りをつける思いがあったからこそ灯りもついてくれ、足元を照らしてくれた事を伝えてくれる。

『芸十夜』(八代目三津五郎・武智鉄二対談)の芸七夜には、文五郎さんのことも話されるが、文五郎さんよりも栄三さんのほうがお二人は上手いと思われている。栄三さんは眉間に傷があったそうで、修業の傷であろう。「喜内住家」(太平記忠臣蔵講釈)で忠義のために夫・重太郎が子供を殺してしまうが、この重太郎のような役の時は泣かないでは人形を遣えないが、「それが顔出してると泣けませんので、泣かんと遣うてますから、あきまへん」とある。武智さんは、写真家・土門拳さんの写真に栄三さんの「重太郎」が子供を殺す瞬間に涙を流しているものがあるという。栄三さんのは見ていないが、文五郎さんの「寺子屋」の千代を遣われている写真などの千代はとても美しい形になっている。

信州の佐久穂町にある「奥村土牛記念美術館」に文楽人形があって、係りの方に尋ねると、文五郎さんが使われていたものですと教えてくれた。土牛さんは、「文楽人形(お染)」(昭和29年)を描かれていて美術書には「お染のカシラとしてごく古いものという。頭の格好、顔の彫の深さなど、今出来のものと別の感じがする。文五郎が使ったものと聞いた。」とある。おそらく記念美術館にあった文楽人形が描かれた人形と思う。土牛さんは大変気に入っていたようである。絵は、お染の横向きの上半身で、顔の白さと赤を基調にした鹿の子の着物と帯で、後ろから遣われるため身体はふくよかで厚みがあり、人に支えられないときの人形の意思が感じられる。人形で動けないのに、動かすならきちんと遣ってくださいなとでも言いそうである。やはり飾ってながめる人形や抱く人形より遣う人形のほうが手強そうである

 

 

歌舞伎座 八月歌舞伎 『龍虎』『勢獅子』

舞踏『龍虎』は、<龍>と<虎>との格闘のすえ、どちらも譲らずその決着はつかないという踊りである。衣裳は『連獅子』のように華麗な刺繍ではないが、形としてはそれに類似しているので、相当大きな動きをしていても、外目にはその苦労は解らないところがある。『連獅子』は親子の情愛、『鏡獅子』は胡蝶が可愛らしくそばで遊んでくれるので、そこの空間は落差がある。ところが、この『龍虎』は力が拮抗しつつも<龍>と<虎>の違いも表現しつつ相争う様を見せなければならないので、身体的にもきつい踊りと思われる。

初演は八世坂東三津五郎さんと三世實川延若さんである。いつであったか、現三津五郎さんと染五郎さんの『龍虎』を観ている。その時、期待したのであるが物語性に乏しくどちらをどう見たらよいかわからず左右を目がうろうろして<龍>と<虎>の違いがわからなかった。今回は義太夫三味線の竹本の語りという事も事前にわかり、音と言葉と踊りを捉えようとしたが、しっかり足が伸びてるなあとか、衣装の引き抜きや毛ぶりに気をとられたりして、またまた<龍>と<虎>の動きの違いを捉えるまでに至らなかった。若い獅童さん<龍>と巳之助さん<虎>の勢いをもらってよしとする。

『勢獅子』となったらどんな<獅子>が出てくるのだろうと思ってしまうが、お祭りの獅子舞いの獅子である。この踊りは、江戸時代のお正月には曽我兄弟の曽我狂言が行われ、それが大当たりすると、5月に曾我祭りを行ったようで、それがなくなり、それを舞台の所作事で復活させ、今は、曾我祭りではなく、山王祭当日の様子としている。よくお目出度い時には曽我物が出てまたなのと思ったりしたが、江戸時代の曽我兄弟の人気は今では想像しがたいほどで、歌舞伎にとってはかつてのスーパースターを讃える意味もあるのであろう。

踊りの中にも、鳶頭二人の曽我兄弟仇討の様子が取り入れられていたり、芸者が曽我兄弟の恋人の大磯の虎や化粧坂の少将の様子などで踊ったりする。かと思うと<ボウフラ踊り>などといわれる踊りや、違う鳶頭二で獅子舞をして、獅子のひょうきんな様子を演じ舞台上の人々や観客を楽しませてくれる。三津五郎さんと橋之助さんの鳶頭を中心に明るく軽快な祭りの一場面が舞台上にくり広げられた。笑みを浮かべたり、面白がったり、そうじゃないだろうと叱咤を飛ばしたり、俺が変わるよとばかりに身を乗り出して観ていた方が歌舞伎座のどこかに居られたことであろう。また、そのかたを喜ばす為にも来年の納涼歌舞伎も盛会となることであろう。

鳶頭(三津五郎、橋之助、彌十郎、獅童、勘九郎、巳之助)鳶の者(国生、虎之助)芸者(扇雀、七之助)手古舞(児太郎、新悟)

 

歌舞伎座 八月納涼歌舞伎 『怪談乳房榎』 

『怪談乳房榎』は、三遊亭圓朝さんの怪談噺がもとである。怖いというよりも、三役早変わりなので、その妙味を味わい楽しむといった芝居である。勘九郎さんが奮闘三役早変わりで、いえ四役でした。最後は圓朝さんになってでられた。

この演目アメリカのニューヨークでも上演され大成功でその凱旋記念公演でもある。また、勘三郎さんが、三世実川延若さんから直接教えを受け、勘太郎さんは父・勘三郎さんから習い受けたという経緯のある演目である。本水も使い夏に相応しい出し物である。

ところが、私の見方を変えなくては、早変わりは楽しめなくなっている。今代役が出て引っ込んで、今度は勘九郎さんで、また引っ込んで、今走っているな。次は花道からだな。花道での早変わりはちょっと減点である。などと頭の中で動いてしまうのである。隣のかたは、「えっ!どうしてなの。凄い!」と楽しんでいて羨ましいかぎりである。一番困るのが、形を決める時、そこまでに行く過程で代役さんの身体の動きを見ていて、勘九郎さんでは無い身体が間にはいることによって、その流れが中断され決まった時の思い入れが出来ないことである。近頃とみにこのブツブツ感があり、自分の中でどう処理しようかと思案中である。

菱川師宣(勘九郎)という絵師がいて、この妻・お関(七之助)が大変な美人で二人の間には乳飲み子の真与太郎がいる。この二人には下男の正吉(勘九郎)が正直者で忠実に仕えている。美しさゆえにお関は酔っ払いの花見客にからまれ助けてくれたのが、浪人・磯貝浪江(獅童)で、浪江は最初から下心があり、重信の弟子にしてもらう。重信は頼まれた寺の天井絵を描くために、夜出かけてゆく。浪江はこの時とばかり、お関に言い寄り叶えられなければ真与太郎を殺し自分も死ぬと真与太郎を人質に取り、望みを叶えてしまう。

浪江の前に、悪事を働いたころの家臣・三次(勘九郎)が現れ浪江をゆするが、浪江は三次に金を渡し仲間にしてしまう。、次に酒の好きな正吉に酒を飲ませ、重信を誘い出させ殺害し、正吉にも重信殺しの片棒を担がせる。死んだはずの重信は、雌雄の龍の絵に眼を書き込むだけとなっている寺に戻っていて、両眼を描き入れると消えてしまう。

浪江は重信の後を継ぎ、お関が浪江の子を身ごもり乳が出なくなり泣きぐずる真与太郎が邪魔となる。正吉の親戚に里子に出すと言う事にして、正吉に真与太郎を殺すことを命ずる。正吉は、真与太郎を助けようと思うのだが、大きくなって浪江に感づかれ殺されるよりも何も知らないうちのほうが苦しみもないだろうと、滝壺に落とすのである。それを拾ったのが、重信の亡霊で、真与太郎を助けて育て怨みをはらせればお前を許すと言われ正吉は真与太郎を育てる決心をする。そこへ、浪江から正吉と真与太郎を殺すように言われて三次が現れ、滝壺の中でのもみ合いとなる。ここが、悪人三次と気が弱いが必死の正吉との見せ場である。三次は重信の亡霊によって滝壺へ引きずられ、正吉は必死で真与太郎を抱え花道を走るのである。

勘九郎さんは、絵師菱川重信、正吉、三次の三役を早変わりしこの物語をかたち作るのである。鷹揚な重信と亡霊重信、正直者だが物事の判断が段々つかなくなっていくが自分に目覚める正吉、悪事を悪事とも思わない三次、この違いを入れ替わりつつ演じわけるのである。この演じ分けも前半は際立つがやはり早変わりが始まると薄れてしまう。

この三次は、圓朝さんの噺には出てこない人物で、歌舞伎のために加えた人物である。どのように加えたのかしりたいので、圓朝さん『怪談榎乳房』を読んだところ、これが語り口がよく気持ちよく読めるのである。そして江戸の風景も描かれている。

滝壺は、『江戸名所図会』にも出てくるという角筈村(つのはずむら)の十二社(じゅうにそう)の大きな滝であったようだ。ここでの立ち回りを考え三次を登場させたように思う。この滝の表現が月明かりの中、正吉の気持ちと重なって良い場面である。そこに歌舞伎として動きを考えても不思議はない。

この後、圓朝さんになって勘九郎さんが出てきて、見事仇討ちを果たし、赤塚村の乳房榎の説明となるが、いままで動きのある芝居を目で見ているので、耳だけとなるときちんと理解するのは容易ではない。なんとなくそうかと納得させられる。<その後の正吉、真与太郎について詳しく知りたい方は、話が長くなりますので、機会がありましたらまた次のお時間に>ということにしておく。

獅童さんと七之助さんコンビ、どうも男女の味わいが薄い。三次の悪役が設定されたので、浪江は色悪でなければならないのであろうか。その辺がわからない。登場人物の解釈が甘いように思う。

芝居から少し離れるが、圓朝さんのことで安藤鶴夫さんが、「明治17年の<怪談牡丹灯籠>の出版は当時の文学者に言文一致という、まったく画期的な示唆を与えることになった。」といわれているが、納得できた。二葉亭四迷がどのように文章を書こうかと迷い坪内逍遥先生に聞いたところ「君は圓朝の落語を知っていよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たらどうかという。」(明治39年『余が言文一致の由来』)と記している。当時は、これが落語という話言葉だったから今と当たり前の文章なのである。誰かが語っているという設定の小説を読んでいる気分であった。圓朝さんがいなければ、言文一致はもっと遅れていたのかもしれない。

そして、『怪談乳房榎』のゆかり町巡りが出来そうである。