水木洋子展講演会(恩地日出夫・星埜恵子) (1)

市川市文学ミュージアムで『水木洋子展』を開催しているが(~3月2日)、その関連イベントで講演会があった。「「砧」撮影所とぼくの青春」(恩地日出夫・映画監督)、「温故創新ーつながる『浮雲』のセット」(星埜恵子・美術監督)。失礼ながら、恩地日出夫監督の名前は知っているが、配られた略歴を見ても恩地監督の映画もドラマも見ていないのである。ただ、『四万十川』に関してはビデオに録画し途中まで見てその後、他のビデオとともに処分してしまっている。四国に旅し(四万十川 四国旅(3))残念と思ったが、ここで再び残念と言うしかない。

今回、東宝の映画関係者だけのために作制した映像も見せてもらうことができ、監督の言葉ではないが、お得であった。関係者のみの映像という事で、使われた映像も音源も無料で使わせてもらったそうである。立川志の輔さんが、忠臣蔵の説明の時(立川志の輔 『中村仲蔵』)浮世絵を使われたが、勝手に使っているんではありません。きちんとお金を払っています。と言われていたのを思い出す。右下に<国立国会図書館所蔵>とあった。

「「砧」撮影所と僕の青春」は恩地監督の出された本の題名でもあり、本を読んだ方は本と同じ内容ですと話される。「砧」は地名で、大船、蒲田、向島、多摩、太秦(14日テレビで映画『太秦ライムライト』が放映された。現在の東映太秦映画村を使い、時代劇の切られ役を主人公にした視点が面白い)などその他にも地名が入る撮影所が多い。

監督は東宝に助監督として入社してからの見習いから助監督までの可笑しくも楽しい話をされた。成瀬己喜男監督、谷口千吉監督等とのエピソード、堀川弘通監督が師匠だが、岡本喜八監督が助監督チーフできびしかったが、岡本さんに育てられたところが大きい。カチンコは恰好よくやれ。ラブシーンも切り合いも、カチンコによって乗りが違うのだ。谷口監督からは黒澤監督との『馬』で黒澤監督が宿に帰ればいつもシナリオを書いていたといつも同じ話をきかされ、岡本さんもシナリオを書けといい、書いて映画関係の本に載ると、いつも批評を書いて渡してくれた。その岡本監督の批評のメモを持参されていて、読んでくれた。そのお陰で監督になるのも速かったと話しつつ、恩地監督の皮肉なユーモアが入るので監督たちのことが生き生きと浮かびあがる。岡本監督の『肉弾』の原稿を印刷所に持って行き発表したのは恩地監督である。

水木洋子さんの関連では、『裸の大将』の監督が堀川弘通監督であり、恩地さんもついていて、山下清さん担当だったので、山下清さん独特の感性についてのエピソードを三点紹介された。どうしてライトが点くのかと聞かれたので、ライトにつながる太いケーブルの中を電気が通っているのだと言うと、ケーブルの上に乗り、自分が電気を止めたつもりになり、どうして電気が点くのかとまた聞いた。撮影のため臨時に特別に走らせた汽車を見て、あの汽車は人が乗っていないと誰も疑問に思わない事を指摘した。山下清役の小林桂樹さんを指さし、あれは小林さんだろ、これはオレだろ、アレはオレだろ、どうなっているのだ。難しくて説明できないというと、そうか難しいかと言われたそうである。短いエピソードになっているが、山下清さんは何回も恩地監督に聞いたのではなかろうか。水木洋子さんによると、山下清さんは、<彼はあきもせず考え続ける。>と書かれている。恩地監督は山下清さんの感性を浮かび上がらせるため不必要の部分は削るシナリオの手法を使われたように思う。

恩地監督が見習いのころ、撮影所で邦画と洋画を好きなだけ見れる場所がありそこで見た映画で一番感動したのが、山中貞雄監督の『人情紙風船』だそうである。最近、「鞍馬天狗のおじさんは – 聞き書きアラカン一代」(竹中労著)を読み、山中貞夫監督を見つけたのは嵐寛寿郎さんと知り驚いたところだったのであるが、私は山中監督の『丹下左膳餘話 百萬両の壺』の娯楽性が好きである。プロは『人情紙風船』のほうが学ぶことが多いのであろう。

一時間では短すぎる話の内容であった。詳しくは、「「砧」撮影所とぼくの青春」の本でということになろうか。

三浦半島と浦賀 (3)

燈明堂というのは和式の灯台である。1648年(慶安元年)、幕府の命で作り1872年(明治5年)まで役目を果たしていた。現在のものは平成元年に復元されたもので、土台の石垣は当時のものである。燈明堂の中には、灯台守が寝泊りできるスペースもあるようで、中の仕組みを見れないのが残念である。この燈明堂の運営にも干鰯問屋がお金を出している。この燈明崎の背後が平根山台場で外国船に備えていた。天保8年(1837年)日本人漂流民を送り届け来航した米商船モスリン号を最初に砲撃している。この燈明崎は浦賀奉行所の処刑場でもあり首切塚もあった。海はあくまでも美しく凧揚げをしたり、磯遊びする家族、魚つりの人などのんびりと時間を過ごしている。

為朝神社を見つけるため気を付けて歩く。為朝は『保元物語』で語られ、『椿説弓張月』(滝沢馬琴著)の主人公であり、歌舞伎では三島由紀夫の『椿説弓張月』がある。歌舞伎は観ているがほとんど覚えていないのである。歴史物のデフォルメした歌舞伎には中々慣れる事ができなかったからでもあろう。為朝神社は源為朝を祀っている。この為朝神社に関しては、旧浦賀文化センター(新しい名前より古い名前が好きなのであえて旧として使わせてもらっている)に置いてあった<浦賀文化34号>に載っている郷土史家・山本詔一さんの「為朝神社」を参考にさせてもらうと、木像が1800年に浦賀に上がり、その木像に病気、怪我の人が祈ると効き目があった。その木像が為朝像であることがわかり、人々は為朝について調べ始め、『伝由記』としてまとめ、社殿を建築することとなる。三浦群の人々は裕福な人も、貧しい人も賛同し出来上がったのが為朝神社である。

この為朝神社で面白い事を知る。神社に奉納される「虎踊」である。近松門左衛門作の歌舞伎や文楽の『国姓爺合戦』(こくせんやかっせん)をも取り入れている。和藤内(わとうない)の登場に始まり太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞い。最後に和藤内が虎を神符で成敗しみえをきるとある。虎は親子二体。親虎には青年、子虎には少年二人づつ入る。和藤内は男の子。唐子は女の子。太唐人は成人男子。「浦賀と野比の虎踊」とあり、野比にもあるようである。どういう経緯でこの民芸が出来上がったのであろうか。興味深いところである。神社を出るとやはり町歩きの男性であろう。為朝神社はここですかと聞かれる。調べてきていないと分からないかもしれない。

次の愛宕山公園は登りである。中島三郎助招魂碑、咸臨丸出港の碑、与謝野夫妻文学碑などがある。晶子のほうは、「春寒し造船所こそかなしけれ 浦賀の町に黒き鞘懸く」で、寛のほうは読めなかった。寛はこのあと亡くなりこの地での歌が最後とあった。ここから浦賀周辺の眺めと別れ、渡し場にもどる。城ケ島で教えてもらったように、対岸の船を呼ぶボタンがある。今回は家族が一組同船である。乗船時間は5分弱である。この船は1725年(享保10年)から市民の足として続いている。三崎港と城ケ島の渡船は城ケ島大橋が出来て一度途絶え復活している。

最後の目的地、東叶神社である。由緒は西叶神社(三浦半島の浦賀 (2))と同じである。同じ神社が東西にあるのが面白い。それを渡船で繋いでいる。こちらは、勝海舟が咸臨丸で出港する前に水ごりをしたという井戸が残っている。奥の院では座禅をし断食をして航海の無事を祈ったようであるが、途中まで登ったがきついので引き返した。予定を終了し近くのバス停からバスに乗る予定であったが、10分くらい待ち時間があり駅まで2停留場なので歩いた。長川の河口をせき止めた形(地下を流れているらしい)で、来た時と反対側の浦賀ドックを左手に駅に向かう形となる。駅前に逆三角形で浦賀ドックはある形となる。

想像していたよりも、江戸をさかのぼって鎌倉、平安末期までタイムスリップさせてくれるものが残っている町であった。そして宿題も沢山おみやげに頂いたような気がする。

 

三浦半島の浦賀 (2)

プチ旅といえども何が飛び出すかわからない。浦賀は鎌倉時代からの港で、江戸時代は干鰯(ほしか)問屋でにぎわったところらしい。先ずは造船所が見えてくる。浦賀ドッグは戦時中は駆逐艦の建造をしている。平成15年に閉鎖となった。浦賀に造船所ができたのは、明治24年中島三郎助の23回忌に愛宕山に中島三郎助の招魂碑が建てられた、除幕式の日にそこに立ち会った人々が決定している。その中に榎本武揚もいる。

そもそも、中島三郎助とは何者なのか。浦賀ドックを左手に眺めつつ、浦賀文化センターを目指す。浦賀のことが解るであろう。浦駕通りから少し奥まった高台にあった。名前が浦賀コミュニティーセンター分館にかわっていた。人の気配はしないが、二階が展示室のようである。映像がながれている。横須賀市と会津若松市は友好都市であるらしい。<会津若松と横須賀の古くて深い関係>と題された映像である。鎌倉時代、三浦の佐原義連が頼朝から会津若松をもらいうけている。江戸に入って江戸湾と三浦半島の警備にあたっていた会津藩は1820年任をとかれ浦賀奉行所がもうけられる。それまで一家をあげて警備のため浦賀にきていた会津藩士はここで骨をうずめた人々もあり、そのお墓も残っている。そして明治維新で敗れたときも新天地をもとめて横須賀にきた人々は多いのである。

中島三郎助は浦賀奉行所の与力で、ぺリーが来航したとき、その艦隊に乗り込み米国使者と対応したのがこの人である。展示室はこの人のことが三分の一占めていて、町には「1月26日 中島三郎助まつり」のポスターもあった。日本最初の様式軍艦「鳳凰丸」の製造の中心人物で、勝海舟が渡米するときに乗った「咸臨丸」の修理もしている。最後は榎本武揚と函館に行き、息子二人とともに戦死している。旧浦賀文化センターでは会津若松との関係、中島三郎助のことを知ることができた。

次に西叶神社である。この神社の創建は文覚上人である。平家物語にも出たきたあの人である。出家する前の名前が遠藤盛遠(えんどうもりとう)である。(映画『地獄門』 と 原作『袈裟の良人』) 頼朝に挙兵を促した人であるから関東の何処かでお会いするとは思っていた。平家の横暴ぶりを憤った文覚上人は上総国鹿野山にこもりはるか京都の岩清水八幡宮に源氏再興を願い叶ったのでこの地に石清水の応神天皇を祀ったのだそうである。文覚上人についてはまた書く機会もあるであろう。この本殿は総檜造りで、安房の彫刻師、後藤利兵衛の作である。干鰯問屋群の力を感じる。町名の案内版などにもそのなごりがある。

そのまま港に近い道に出ると渡し船がある。この船は対岸の東叶神社に行けるのである。その前に燈明崎の燈明堂を目指す。途中、陸軍桟橋がある。浦賀は終戦後の引き揚げ指定港でもあり、約56万人の引き揚げ者がこの地を日本の第一歩として踏んでいる。感染症のため日本を目の前にして踏むことが出来なかった人も沢山いるのである。鎌倉の浄智寺にも、ある戦友会の碑があり次の様に記していた。「世界平和待ち侘びし 平和の光さし出でて 千代に守らん四方のひとびと」 寒さは厳しいがそのまま海を眺めつつめ歩き、愛宕山公園と為朝神社を通り過ごしてしまった。道が一本山側のようだ。帰りに寄ることとする。

 

三浦半島の浦賀 (1)

東海道神奈川宿から保土ヶ谷宿で、台の茶屋跡も残っており仲間達は皆感動したのであるが、そこでこんな会話が。「こちらが横浜の海、黒船に江戸の人は驚いたのよねえ。」「黒船が最初に姿を表したのは?」「浦賀でしょう!」この時インプットされてしまった。そうだ浦賀に行かなくては。おりょうさんを吉田家に世話したのは勝海舟である。徳富蘆花が愛子夫人と新婚生活を始めるのが、赤坂氷川町の勝海舟邸内の借家である。(世田谷文学館と蘆花恒春園)勝海舟という人は色々なところに出没する。

旅行案内本にも浦賀の散策が載っている。ぺリーの黒船は1854年浦賀沖に現れ、久里浜で親書を渡し、次の年1854年横浜で日米和親条約(神奈川条約)を結び、1856年ハリスが下田に着任し日米和親条約付録(下田条約)を結ぶのである。神奈川条約締結で下田と函館の開港を決める。ぺリーはなるべく江戸に近づこうとし、江戸幕府は江戸に近づけさせないようにと苦慮している様がうかがえる。

ぺリーの黒船の上陸したのを記念して、久里浜海岸にぺリー公園とぺリー記念館がある。まずそこに久里浜駅からバスで行く。公園には伊藤博文筆の大きなぺリー上陸記念碑がある。戦争中は倒されていた。黒船は 沖縄に寄ってから浦賀に来航しその6日後に久里浜に上陸している。外国船はその前から通商を求めてきていた。欧米諸国はアジアをに工業原料を求め、それを自国で生産して、その商品を売り込みたがっていた。

帆船ではない車輪のついた黒い蒸気船に江戸の人々は驚いてしまった。それに開国派、攘夷派、尊王派、幕府派の組み合わせが迷走入り乱れ徳川幕府も内と外からの波に翻弄されていく。相模湾、東京湾に挟まれ太平洋に突出している三浦半島も風光明美でありながら陸では様々な事を見てきたのである。再びバスで久里浜にもどり、浦賀に向かう。途中、京急大津駅から10分のところにおりょうさんの眠る信楽寺があるが帰りに寄ろうと思ったが寄れなかった。

司馬遼太郎さんが『街道をゆく 三浦半島記』で次のように書かれている。「山門が、すでに高い。その山門へ上る石段の下にー つまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背にー いわば路傍にはみだしてー 墓が一基ある。路傍の墓である。」「りょうの墓碑は、おそらく海軍の有志が金を出しあって建てたものらしく、りっぱなものである。碑面に、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。りょうの明治後の戸籍名である“西村ツル“は、無視されているのが、おもしろい。」

東慶寺から城ケ島へ (3)

『東慶寺花だより』にも、城ケ島がでてくる。『東慶寺花だより』は、見習医者になるか滑稽本の作者になるか未だ定まらない主人公・信次郎の目から見た、縁切りのために東慶寺に駆け込む女人とその関係者、逗留する旅籠の柏屋の人々の様子などが花の名と共に語られる。その柏屋の八歳になる一人娘・お美代に信次郎は話をねだられ昔々おられた東慶寺の梅月尼についてのお話をする。(実在の方なのかどうかは調べていない)

梅月尼様は上総の国の武将の御姫様で、八歳のとき安房の国の武将の若様と婚約する。この二人は一度だけ顔を合わせている。その後、御姫様の父は戦で討死。御姫様が敵に殺されてはと恐れた母がお姫様を東慶寺に預けたのである。母はその後敵に殺されてしまう。御姫様は梅月尼として両親の菩提を弔って20年がたつ。その頃関東に大合戦が起こり、許嫁の安房の国の若君が大将として城ケ島から鎌倉に攻め入り梅月尼を奪い去り、安房の国に連れて行き幸せに暮らすのである。安房の国から若君は三浦半島をいつも眺めていたのであろうか。城ケ島から鎌倉にまっしぐらに進んだ若君の雄々しさが想像できる。お美代もその話に涙し、それから信次郎に話をせがむようになる。信次郎は、大人の汚れた部分をも耳から伝え聞いてしまうお美代の居る環境に対し、御姫様をお美代と同じ年齢から話を設定し作りあげたのである。夢を見る前に現実を感じてしまうお美代の感性に、違う風を吹き込んだである。

この話の後でお美代が語る言葉は八歳の子が言えるとは思えない内容で、反対に大人が言えば空中分解しそうな言葉でお美代ちゃんが言うから可笑しみのある真となる。

「このあいだ、円覚寺のお坊様がお説教で、この世はだれが騙してだれが騙されるか、嘘と噓との寄り合い所帯、確かなものは仏の御教えだけじゃと、そうおしゃっていた。けれど、その噓と噓との寄り合い所帯のこの世に、恋という、もう一つたしかなものがあったのね」

お美代ちゃんの言葉を借りると、白秋さんはそのたしかな恋で名声を失い恋を成就させ三崎で俊子さんと共に暮らすのである。そして様々な思いの中で詩作し、「城ケ島の雨」も作り、俊子夫人の結核療養のため小笠原の父島に渡る。その恋は破たんするが歌集『雲母集』で「兎に角此の雲母集第一巻は純然たる三崎歌集である。而してこれらの歌が全く自分のものであり、私の信念が又、真実に自分の心の底か燦めき出したものに相違ないという事は、自分ながらただ有難く感謝している。」と書いている。恋というたしかなもののほかに、歌というたしかなものもあったということであろうか。

現在の「城ケ島の雨」の一節を刻んだ白秋碑は城ケ島大橋の下に位置する。歌からすると橋よりも雨と舟が似合う。

雨はふるふる 城ケ島の磯に 利休鼠の雨がふる                          雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの忍び泣き                       舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて帆あげたぬしの舟                      ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意氣                    雨はふるふる 日はうす雲る 舟はゆくゆく 帆がかすむ

かつての御姫様と若君様は城ケ島から舟で安房の国へ渡ったのであろう。その時は梅の香るころ、雨ではなく、月の美しい夜。そのほうがお美代ちゃんが喜びそうなので。

 

 

東慶寺から城ケ島へ (2)

京急の三浦海岸駅からバスで三崎港へ。調べた限りでは三崎口駅よりもバスの本数が多いからであるが、それでも1時間に1本程度である。よく解らぬが予定にないバスが、あまり待つことなく来てくれた。テレビで路線バスの旅をする番組があるが、あそこまでは行かなくともこの辺りも路線バスは少ない。地形的には高い位置をバスは走る。30分ほどで三崎港に着く。

旅行ガイドブックの紹介によると、三崎港から城ケ島渡船「白秋」で城ケ島に渡るルートでそれも気に入ったのである。12人乗りの船で他に乗船者が見当たらない。船を運転する方が乗っていいと言う。お金を払って、乗船し何人か来るまで待つのだろうかと思っていると動き出した。貸し切りである。300円で船を貸し切ってしまった。10分に満たない時間ではあるが。城ケ島に着くと、もし船がいなければそこにあるボタンを押すと10分で迎えに来るからと教えてくれる。成る程そういう仕組みになっているのか。お店のある方向と山には水仙が咲いている事も教えてくれた。

年末暴飲暴食でひどい目に合い、お粥とスープが続いていたので軽くミニマグロ丼を半分食べる。周りは豪華に海の幸を食べているが、我慢である。灘ケ崎の岩棚まで降りもどって丘の上の楫(かじ)ノ神社で平和祈願。航海安全と大漁祈願の漁師さんの神社のようだが今年はどこの社寺仏閣でも願いは全て平和祈願に決めた。

お土産屋さんを通って途中から階段を登り真っ白な城ケ島灯台へ。灯台の後ろには伊豆半島と雪の富士山がうっすらと見える。長津呂(ながとろ)の磯も見える。この千畳敷の長津呂の磯から浸食されて穴のあいた馬の背洞門までが大変であった。岩礁は見ていると美しいが波に削られ起伏があり、平になると砂場で足を取られ歩きずらい大した距離ではないが時間を要した。削られた岩穴から地平線を見るのも海の自然の金魚鉢のようである。馬の背洞門から上の道に上がると両脇に水仙が植えられているがまだ花の数は少ない。水仙まつりは12日からだそうで山の上の散策コースを歩くともっと咲いていたのかもしれない。

ウミウ展望台から眺めるとウミウであろうか鳥が飛び回っている。海に突き出た切り立った崖とその上の緑が広い海に一言物申しているかのようである。道なりに歩いていくと県立城ケ島公園である。展望台からは千葉房総半島、伊豆大島、伊豆半島がパノラマ式に見える。公園の東側に安房崎灯台がある。下までおりて上がってくるのが大変そうなのでそのまま公園の入り口に向かう。風に任せて曲がっている松の下に水仙という取り合わせがなかなか良い。そこから「北原白秋記念館」に向かう。

白秋の三崎時代は短いが凄い時間であったことを知る。「城ケ島の雨」の雨に色をつけ、それも<利休鼠>としたことに感動してしまうが、白秋さんにとってはもっと深い色であったのであろう。記念館で「北原白秋 その三崎時代(抄) 『雲母集』を歩く」(野上飛雲著)を購入。これがとても参考になる。「彼の官能的唯美時代で、この年(明治43年)の二月の強烈な官能美をたたえた作品「おかる勘平」を掲載した『屋上庭園』は、その内容が検閲当局の忌諱に触れて、発禁処分を受けた年であった。」の部分にはどんな「おかる勘平」なのか知りたい。こんな所までおかると勘平が追いかけてくる。頼朝が設けた三つの御所・桜・桃・椿と白秋の関係など場所も訪ねられ歌も調べられて書かれているので、またまた三崎の関連場所を歩きたくなる。帰りはバスで城ケ島大橋を渡ったのであるが、渡ってすぐに「椿の御所」の名前のバス停があった。大椿寺(だいちんじ)が「椿の御所」の跡だそうで、白秋さんが朝な夕な散策したところである。見桃寺は「桃の御所」でここに白秋の歌碑がある。「寂しさに秋成が書讀みさして庭に出でたり白菊の花」上田秋成の「雨月物語」を読んだときの気持ちである。

「ただ一人帽子かぶらず足袋穿かず櫻の御所をさまよひて泣く」 「桜の御所」は本瑞寺で、この歌はノートに記されていながら棒線を引いて消されていて『雲母集』のなかにも収められていづ、世の中に出ていないのだそうである。あまりにも実写過ぎて歌としての空間がないということであろうか。筆者も「白秋が三崎に流離した当時の風姿を知る上で貴重な歌である。」としているが、その当時の白秋さんの姿そのものと思う。そして三崎から城ケ島の木々の緑が雨のベールを通して見た時<利休鼠>だったのである。

 

東慶寺から城ケ島へ (1)

迎春と思って居たら、もう七草である。今年はプチ旅からの出発である。

昨年は何から始めたのであろうと振り返ったところ腕に抱え込んだ継続 (小村雪岱)であった。『平家物語』『日本橋』『「日本橋檜物町』と繋がっていたようである。今回のプチ旅の<東慶寺>も本に関係する。そしてそれは、歌舞伎座新春歌舞伎の新作演目として『東慶寺花だより』が登場したからであり、原作が井上ひさしさんの『東慶寺花だより』なのである。その前に古本屋で鎌倉の旅の本を購入したところ、三浦半島が載っていた。持ち合わせの鎌倉の本には三浦半島は載っていない。最後の案内が城ケ島である。<奇岩と波と島 白秋の詩が聴こえる 絶景の隣には漁港>地図を見ているだけで次はここと決めている。城ケ島に行く前に<東慶寺>と<浄智寺>に寄ろう。

北鎌倉8時半着である。<東慶寺>は8時半開門である。北鎌倉なら円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院、建長寺、そこから鶴岡八幡宮であろうか。あとは健脚次第だが、今回は楽勝である。時間も早いため人もまばらである。北鎌倉駅から東慶寺が近づくと、離縁のために東慶寺に駆け込む女性達を世話した宿がこの辺にあったのであろうかと想像たくましくなる。お寺の前は鎌倉街道。この辺りは山ノ内と言われ山ノ内街道ともいわれる。テレビで新春東西の歌舞伎が紹介され『東慶寺花だより』の中継もあったが、録画してまだ見ていない。芝居の方の観劇は千穐楽に近い日にちになる。それが終わってから録画を見ることにする。

<東慶寺>の歴史に関しては興味深いことが沢山あるが説明は省く。お寺にも『東慶寺歴史散歩』の小冊子が置いてあり購入した。「会津四十万石改易事件」などという項目があったのである。その冊子の最後に詳しくお読みになりたい方は有隣新書『東慶寺と駆込女』をお求めくださいとある。井上ひさしさんの『東慶寺花だより』(文春文庫)にも「特別収録 東慶寺とは何だったのか」があり、解り易く解説されている。

東慶寺に小さくて可愛らしい観音菩薩がある。<水月観音菩薩遊戯座像>である。いつも拝観できるわけではない。予約が必要である。10年ほど前、上野の国立博物館で『鎌倉ー禅の源流』展がありその時お逢いしている。今年は2月4日~4月13日まで東慶寺で公開のようである。(再確認されたし)東慶寺でお逢いしたいのでまた訪れねばならない。花としては蝋梅がまだですがせっかくですから少しだけと奥ゆかしく咲いていた。岩壁にイワタバコと書かれていたが岩肌に群生する花の名前のようである。これも見てみたい。いつ頃咲くのであろうか。本堂の屋根の線が美しい。松ヶ岡宝蔵は時間が早く開いていないので次の機会とする。

今回は周囲の雰囲気を想像したかったので次の、浄智寺へ。山門への石段の感じがいい。石段の薄さ、ゆるくデコボコしているのが優しい。大正12年の震災で破損し昭和の初期に復元された南北期の観世音菩薩が裏の方にひっそりと佇ずまれているのが印象的である。古くて大きな高野槇がありやぐらも多く、トンネルの先のやぐらの中の布袋尊がユーモアがあり福がきそうである。お腹をなでると元気がもらえるそうで、もちろん元気をもらってきた。鎌倉・江の島の七福神の一つである。浄智寺の横の出口を抜け山に向かっていくと少し竹林があり、道が細くなり登り道となる。源氏山公園に続く道である。こちら方面に錢洗弁財天、佐助稲荷神社がありそこから大仏坂を下って行くと大仏の高徳院そして長谷寺へと続くのである。長谷方面からこの道で東慶寺へ入る女人もいたのである。寿福寺から長谷まで裏大仏の道を歩いたことがあるので、その辺りのことが小説『東慶寺花だより』に出てくると様子が浮かんでくる。東海道の宿場の名前が出てきたりすると嬉しくなり読んでいてとても楽しかった。

山道は途中で引き返し北鎌倉駅に向かい久里浜を目指す。反対に駅からこちらに向かう人の多さに驚く。早い出だしで正解であった。