宝塚と義太夫

歌舞伎学会の講演会があった。 ≪演劇史の証言 酒井澄夫氏に聞く≫ 講演名は「宝塚義太夫歌舞伎研究会」である。宝塚と義太夫とどんな関係があるのか興味が湧いた。

酒井澄夫さんは、宝塚歌劇団理事・演出家ということである。申し訳ないことに宝塚は一度も見ていないのである。組も数種あり、スターも多くて何をどう見ればよいのかわからなく、観たものが、この程度なの宝塚はと思うような観方もしたくないと思ったりするのであるが、深く考えないでそのうちなんとかしよう。

公演は、エポックの部分が明らかになった感じで面白かった。

時代は昭和27年から昭和43年まで、宝塚の生徒さんが、<宝塚義太夫歌舞伎研究会>として自主的に義太夫歌舞伎の発表会(公演)をしていたという事実である。酒井さんの話では、こちらから見てスターでも、宝塚内部では皆さん生徒さんなのだそうである。皆さん、教えに対しては呑み込みが早く、言われた通りに身体で受け止め、それが舞台に立った時、華があるかどうかという事のようである。その事から一つ納得したことがある。

続・続 『日本橋』 で、淡島千景さんのインタビューに触れたが、多くの監督さんの作品に出られていて、それぞれの監督さんの印象について聞かれたとき、印象がないと言われていた。習いに習うだけで自分のことで精一杯で、監督さんを観察する余裕などなかったし、冗談を言い合うということも無かったんです。謙遜なのかと思ったが、宝塚で身につけられていた<習う>という基本がつながっていたのであろう。

講演資料によると始まりは、昭和26年の「義太夫と舞踏会」「宝塚義太夫の会」「宝塚歌劇と義太夫」、昭和27年「宝塚歌劇と義太夫」では、専科花組生徒出演者の中に、有馬稲子さんと南風洋子さんの名前がある。そして義太夫歌舞伎公演の第一回が開かれている。活躍したのは、天津乙女さん、春日八千代さん、神代錦さん、南悠子さん、富士野高嶺さん、美吉佐久子さん等である。名前をよく耳にするのは、天津さんと春日さんである。南悠子さんは、淡島千景さんと久慈あさみさんとともに<三羽烏>といわれたらしいが、やはり映画に移られたかたの名前がメジャーになってしまう。

この研究会の指導者が、義太夫が娘義太夫で活躍した竹本三蝶さんで歌舞伎は、二代目林又一郎さんである。このお二人の名前も今では表に出てこられることはない。二代目又一郎さんは初代鴈治郎さんの長男であるが、身体が弱く芸の力がありながら大きな役を続ける体力がなかったようである。又一郎さんの息子さんは戦死され、孫が林与一さんである。上方歌舞伎の衰退の時期に、この<宝塚義太夫歌舞伎研究会>の自主公演は行なわれていたのが興味深いことである。

美しい宝ジェンヌが、『壺坂観音霊験記』」の沢市や『車引』も演じていて、写真を見た限りでは違和感がなく、『車引』は雰囲気がよい。酒井さんが見始めた頃も、女がという違和感はなかったようである。天津乙女さんの『鏡獅子』の素踊りの映像を見せてもらったが、晩年とは云え、獅子になってからも力強かった。二代目又一郎さん、三蝶さん、天津乙女さんが亡くなられて<宝塚義太夫歌舞伎研究会>は立ち消えとなる。詳しく正確なことは、『歌舞伎と宝塚歌劇ー相反する、蜜なる百年ー」(吉田弥生編著)に書かれてある。

私は、かつての元宝塚出身の映画での役者さんでしか見ていないが、月丘夢路さん、乙羽信子さん、淡島千景さん、久慈あさみさん、新珠三千代さん、八千草薫さん、高千穂ひづるさん、有馬稲子さん、南風洋子さん、鳳八千代さんなど沢山の方々が、美しさだけではない個性を感じさせてくれる人物像をされていて好きである。そしてそれぞれに色香がある。それは、習って色をつけ、その色を自分のものにして、そしてまた習う。常に習う場所を空けておいているからであろう。ただ今のかたは、同じに見えてしまうのはどうしたことか。それだけの力を引き出してくれるかたも居ないということか。見るほうが駄目なのか。

「歌舞伎学会」の講演は誰でも聞きに行けます。資料代があり有料ですが。