大坂天王寺七坂 <織田作さんの坂道> (3)

生國魂神社の木について織田作さんは次のように表す。

「それは、生国魂(いくたま)神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟(くすのき)の老木であったり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)った時に濡れた着物を干した銀杏の木であったり、」

そして、主人公は生国魂の夏祭りには、一人で行くのである。

「七月九日は生国魂の夏祭りであった。」「私は十年振りにお詣りする相棒に新坊を選ぼうと思った。ひそかに楽しみながら、わざと夜を選ぼうとおもった。そして祭りの夜店で何か買ってやることを、ひそかに楽しみながら、わざと夜をえらんで名曲堂へ行くと、新坊はつい最近名古屋の工場へ徴用されて今はそこの寄宿舎にいるとのことであった。私は名曲堂へ来る途中の薬屋で見つけたメタボリンを、新坊に送ってやってくれと渡して、レコードを聞くのは忘れて、ひとり祭見物に行った。」

主人公は、高津宮跡にある中学校(現高津高校)に通い、高等学校は京都の三高(現京大)へ行く。「中学校を卒業して京都の高等学校へはいると、もう私の青春はこの町から吉田へ移ってしまった。」 そして十年振りに訪れる機会が出来るのである。そして、名曲堂の父子に会い、新坊に会うのである。しかし、その父子も流れて行き、彼もまた流れて行く。彼は父子には何も言わない。しかし、私には、織田作さんが、騙されるなよと心の中でつぶやいているような気がしてならないのである。 「風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。」

織田作さんは『木の都』として、木と風とそこに住む人々をサラサラと活写している。私は、わわしくまた書き加える。

高津宮は生玉真言坂を下りた千日前通りを渡った向いの少し高台ということになる。仁徳天皇が難波高津宮から竈の炊煙が見えないのを憂いたともいわれ、仁徳天皇を祀られている。そしてここのだんじり囃子が、あの『夏祭浪花鑑』のお囃子で、ここがその舞台ということになる。絵馬堂には、現藤十郎さんが襲名された時、団七九郎兵衛の絵馬を奉納されている。その西側には、北と南から上がってくる階段があり合相坂といって、真ん中で逢うと相性がよいのだそうで、その手すり部分に石が支える形になっていて、様々の方の名前の中に仁左衛門さんの名前も発見。落語の『高津の富』の舞台でもあり、五代目桂文枝之碑もあった。

『木の都』は、<高津宮の跡をもつ町><大阪町人の自由な下町の匂う町>である。

生国魂神社の前には、桜田門外の変に関連し、上方でも挙兵しようとした水戸藩浪士・川崎孫四郎の自刃碑と水戸浪士・高橋父子を匿った笠間藩士・島男也旧居跡の碑もある。大坂と水戸の坂の町の幕末の風。 坂のある町 『常陸太田』 (1) 坂のある町 『常陸太田』 (2)

そして、織田作さんの『蛍』は、伏見の寺田屋の女将お登勢の話となる。文句ひとつ言わず働き通しで諦めだけのお登勢が、薩摩の士の同士討ちの騒ぎのとき、有馬という士が乱暴者を壁に押さえつけながら 「この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を刺せ」 の最後の叫びを耳にしてから、お登勢は自分の中に蛍火を灯すのである。その蛍火は坂本とお良をも照らすこととなる。

蛇足ながら、幕末も加えてしまったが、『夏祭浪花鑑』の女だてに通じるかなとふと思ったのである。織田作さんに色数が多いと嘆息されそうである。