歌舞伎座 7月歌舞伎 『天守物語』『修善寺物語』

玉三郎さん、海老蔵さん、左團次さんに澤瀉屋一門にベテラン陣に若手にそこへ市川中車さん、亀鶴さんが加わり、大御所の我當さんがピリオド。失敗はない組み合わせである、どう見せてくれるか楽しみの月である。

『天守物語』は古典歌舞伎の意表をつく展開とは違う、泉鏡花の作品である。天守閣の五重に住む、人間ではない富姫と人間である図書之助との出会いと結ばれるまでの物語である。まずこの二人が出会う前に人間世界とは違う世界を表現し、その違う世界がどうして一つになって行くのか。これ以上説明すると、自分の得た色につまらぬ色を加えることとなりそうなので、ここまでとする。前回よりも、最後の光が強くなって輝きを増した。これは、最後の我當さんの彫刻師の科白が温かく確信に満ちているからである。富姫の姉妹同様の亀姫役の尾上右近さんだけ少し心配であったが、5月の『魚屋宗五郎』の町娘役の時から顔の造りに工夫があり、その場の雰囲気に溶け込んでおり、その頑張りで玉三郎さんの楽しむ異界での妹分としての役割は果たされていた。

観客も蝶か花にでもなって、その色具合を存分に愛でるにかぎる。言葉を楽しみ、逃がしてやり、逃げおくれたものをそっと拾う。前回よりもっと楽しませてもらった。

『修善寺物語』は、岡本綺堂作で、芥川龍之介の『地獄変』のような、芸術至上主義の世界である。『修善寺物語』と『天守物語』を並べたのも面白い。中車さんにとっても、芸術至上主義のテーマがあって、役つくりに自分の思いを乗せ易かったのではと思うがいかがなものか。

将軍源頼家の悲劇を、面作師(おもてつくりし)の面を通して見えてくる予兆と何事にも動じない芸術性の誇りが最後に支配する。頼家から依頼された頼家自身の面を彫る夜叉王は、いくら彫っても面が死んでおり納得がいかない。頼家は面がなかなか出来上がらないため自ら催促に出向く。それでも夜叉王はいつできるとも約束出来ないと伝える。そこへ娘の桂が、出来上がっていると、面を差し出す。頼家はその面に満足する。さらに桂を召し抱える。妹の楓が父の弟子と結ばれた事に対し、自分は職人風情ではなく、天上人に召されることをのぞんでいたので、願いが叶い、頼家のお供をする。ところが、頼家は、暗殺されてしまう。桂は、頼家の衣服を身に着け、頼家の面をかぶり、頼家になりすまし敵を欺こうとして、深手をおい、父の家に辿りつく。桂は、頼家から亡くなった側室の若狭の名をもらい、最後に側室としての器量が備わったような死にかたを選んだのである。頼家の面に生がよみがえり、夜叉王は、自分の彫った面が死んでいたのではなく、頼家の死を予言していたのだとして、自分の技量により自信を持つ。そして、娘・桂の断末魔の絵姿を筆にしたためるのである。

自分の面作(おもてつくり)に対する依怙地なくらいの貫き方を、中車さんは存分に表現した。そんな中で、小さな幸せを育む楓(春猿)と晴彦(亀鶴)。対称的な桂(笑三郎)。北条によって囲まれて頼朝の子としての存在感のなさに悩み孤独な頼家(月乃助)。桂の気の強さは頼家に合っていたかもしれない。単に出世を望む女性と思われたが、その最後をみるとそれだけではなかったと思わせる。

歴史性を含んだ人間ドラマになった。

修善寺にある頼家のお墓は、訪れると物悲しくなってしまうような佇まいである。だが、もし桂川のそばで、桂に語ったような時間があったとすれば、修善寺が頼家の眠る場所にふさわしい。そこに温かく見守る人々がいればなおさらである。