歌舞伎座 7月歌舞伎 『天守物語』『修善寺物語』

玉三郎さん、海老蔵さん、左團次さんに澤瀉屋一門にベテラン陣に若手にそこへ市川中車さん、亀鶴さんが加わり、大御所の我當さんがピリオド。失敗はない組み合わせである、どう見せてくれるか楽しみの月である。

『天守物語』は古典歌舞伎の意表をつく展開とは違う、泉鏡花の作品である。天守閣の五重に住む、人間ではない富姫と人間である図書之助との出会いと結ばれるまでの物語である。まずこの二人が出会う前に人間世界とは違う世界を表現し、その違う世界がどうして一つになって行くのか。これ以上説明すると、自分の得た色につまらぬ色を加えることとなりそうなので、ここまでとする。前回よりも、最後の光が強くなって輝きを増した。これは、最後の我當さんの彫刻師の科白が温かく確信に満ちているからである。富姫の姉妹同様の亀姫役の尾上右近さんだけ少し心配であったが、5月の『魚屋宗五郎』の町娘役の時から顔の造りに工夫があり、その場の雰囲気に溶け込んでおり、その頑張りで玉三郎さんの楽しむ異界での妹分としての役割は果たされていた。

観客も蝶か花にでもなって、その色具合を存分に愛でるにかぎる。言葉を楽しみ、逃がしてやり、逃げおくれたものをそっと拾う。前回よりもっと楽しませてもらった。

『修善寺物語』は、岡本綺堂作で、芥川龍之介の『地獄変』のような、芸術至上主義の世界である。『修善寺物語』と『天守物語』を並べたのも面白い。中車さんにとっても、芸術至上主義のテーマがあって、役つくりに自分の思いを乗せ易かったのではと思うがいかがなものか。

将軍源頼家の悲劇を、面作師(おもてつくりし)の面を通して見えてくる予兆と何事にも動じない芸術性の誇りが最後に支配する。頼家から依頼された頼家自身の面を彫る夜叉王は、いくら彫っても面が死んでおり納得がいかない。頼家は面がなかなか出来上がらないため自ら催促に出向く。それでも夜叉王はいつできるとも約束出来ないと伝える。そこへ娘の桂が、出来上がっていると、面を差し出す。頼家はその面に満足する。さらに桂を召し抱える。妹の楓が父の弟子と結ばれた事に対し、自分は職人風情ではなく、天上人に召されることをのぞんでいたので、願いが叶い、頼家のお供をする。ところが、頼家は、暗殺されてしまう。桂は、頼家の衣服を身に着け、頼家の面をかぶり、頼家になりすまし敵を欺こうとして、深手をおい、父の家に辿りつく。桂は、頼家から亡くなった側室の若狭の名をもらい、最後に側室としての器量が備わったような死にかたを選んだのである。頼家の面に生がよみがえり、夜叉王は、自分の彫った面が死んでいたのではなく、頼家の死を予言していたのだとして、自分の技量により自信を持つ。そして、娘・桂の断末魔の絵姿を筆にしたためるのである。

自分の面作(おもてつくり)に対する依怙地なくらいの貫き方を、中車さんは存分に表現した。そんな中で、小さな幸せを育む楓(春猿)と晴彦(亀鶴)。対称的な桂(笑三郎)。北条によって囲まれて頼朝の子としての存在感のなさに悩み孤独な頼家(月乃助)。桂の気の強さは頼家に合っていたかもしれない。単に出世を望む女性と思われたが、その最後をみるとそれだけではなかったと思わせる。

歴史性を含んだ人間ドラマになった。

修善寺にある頼家のお墓は、訪れると物悲しくなってしまうような佇まいである。だが、もし桂川のそばで、桂に語ったような時間があったとすれば、修善寺が頼家の眠る場所にふさわしい。そこに温かく見守る人々がいればなおさらである。

 

 

 

東北の旅・世界文化遺産 平泉(8)

一ノ関駅から<平泉世界遺産めぐり>のツアーバスに乘る。毛越寺 → 観自在王院跡 → 金鶏山(車中から眺める) →中尊寺 → 無量光院跡 と周る。世界遺産に登録されたのは、この五つと、これらが構成していた、仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺産群なのである。藤原清衡は中尊寺を、二代目基衡は毛越寺を、基衡夫人が亡き夫のために観自在王院を、三代目秀衡は無量光院を建立する。

京都が人口20万人のころ、平泉は10万人の都市である。毛越寺(もうつうじ)は、遺構と庭だけが残っている。大泉が池の対面には、「円隆寺」と称する金堂があったらしいが、今は想像するだけである。庭を時計廻りに進んでいくと、あやめ祭りで明治神宮から分けてもらったというあやめが満開であった。個人的には、あまり賑々しくして欲しくない。池に水を引く遣水もある。ここで歌を詠み酒をかわす曲水の宴が開かれる。若い頃来た時は、どこから歩いたのかかなり長い距離歩いた記憶があり、やっとたどり着いて、緑に囲まれた池が、わあーっと見えて、ここにこんな庭園がと感動したが、その後2回目であるが、その感動に勝ることはない。

初めての時は中尊寺から歩いて来たような気もする。もしそうなら、<奥大道>の一部を歩いた事になる。<奥大道>とは、博多から京都、白河の関、平泉を通り陸奥の外ヶ浜につながる道で、白河の関から外ヶ浜までが<奥大道>である。博多は、中国へ、外ヶ浜は北海道からロシアへ、交易のつなぐ経路だったのである。

毛越寺のすぐ東に観自在王院跡(かんじざいおういんあと)がある。ここには、基衡の妻が亡き夫の為に建立した、二つの阿弥陀堂があった。今は史跡公園となっているが、今回はその入口までである。

 

 

観自在王院跡の説明版から

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0302-3-547x1024.jpg

 

 

その周辺にある今現在の一般住民の新しい住宅は、景観を損ねない様なシックな色や造りになっている。この辺一帯の建物は、世界文化遺産の遺跡の上にあるわけで、家を新しくするときは、発掘して重要な遺跡がないかどうか調べてから、差支えなければ建てられるが、何か重要な発掘があれば、他に移転しなければならないそうである。敷地内の家屋の横を掘っているのをみて、バスガイドさんが、<物置か何かを建てるのでしょう。建てる前に発掘をして調べるのです。>という。北上川の近くの一帯に、<柳之御所>の跡が発掘され、ここに住んで居た方達は移転したそうである。世界遺産も、そこに住む方にとっては、遺産を守る心構えが必要で、世界遺産になったから人々が観光で訪れ経済的効果があるというだけの問題ではなさそうである。そこにどんな文化があったのか、理解してもらわなければ、移転の意味が薄れてしまう。

バスは、金鶏山を左手に見つつその麓を走り、中尊寺に向かう。金鶏山は信仰の山である。最後に行く無量光院跡(むりょうこういんあと)を先にふれる。無 量光院はこの金鶏山を背景に宇治平等院の鳳凰堂をしのぐ大きさの本堂があり、一年のある時期には、この本堂の阿弥陀堂から真っ直ぐ後ろの金鶏山の頂に日が沈み、阿弥陀様の光の道のように映ったらしい。代々引き継がれ現世の浄土思想が形造られていくわけである。

 

 

無量光院跡でのかつての無量光院の予想図

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0310-2-1024x632.jpg

 

 

平泉といえば、中尊寺。中尊寺といえば金色堂である。旅に出る数日前に記録映画『よみがえる金色堂』のDVDが見つかる。1962年(昭和37年)から7年かけて金色堂が修理されたが、その記録映画で、脚本・監督が中村麟子さんである。中村監督はこの記録映画で初めての出会いである。金色堂を覆っている覆堂を大きくして、金色堂をゆったりと拝観できるようにする。そして、金色堂の飾りの螺鈿(らでん)の修理、巻柱の菩薩の修理が丁寧に描かれている。そこに働く様々の方の細かい配慮と研鑽がやはり賞賛すべき価値である。落成式の時、今東光さんの姿が。今東光さんが、貫主の時であったのか。瀬戸内寂聴さんが出家されたのも、中尊寺の本堂である。話がそれたが、芭蕉さんが訪れた時は、覆堂があり、金色堂の全景はみていないのである。記録映画のお蔭で、一つ一つの螺鈿に人の手が見えてくる。

京に仏像の作成を頼むが足止めされてしまう。そのため、平泉は砂金、馬、アザラシの皮、絹物、山海の珍味など送り続けてやっと運び込まれたという話もある。とにかく想像以上の財力と雅文化である。義経が、京に入り貴族に歓迎されたのは、この平泉で身につけた平泉文化が奥州に憧れていた貴族たちを満足させたのかもしれない。そのあたりは木曽義仲と違うところである。

そして、奥州には名馬が揃っている。馬の扱いが上手かったのも、この奥州の平泉にいたからこそと思えてくる。そのことは、頼朝が平泉の財力と文化を恐れていたことでも想像がつく。義経が奥州の山中に逃げ込み、それを追いかけてまで、なぜ殺さなければならなかったのかと、頼朝の非情さを思ったが、これは頼朝にとってはいつかは、倒さねばならぬ勢力であったのだ。

バスツアーのため覚悟していた金色堂までの長い登り坂も、駐車場のお蔭で短くて済んだ。ところが、階段は登りも下りもなんとかなるのであるが、階段のない下りの坂が骨折の足の小指にひびくのである。最後にして、バランスの悪い歩き方となる。中尊寺のガイドさんも、まだまだ見るところはありますからと言われる。

西行の歌碑があり、西行も来ていたのである。 <きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは>。

芭蕉歌碑、毛越寺で <夏草や 兵どもが 夢の跡>、中尊寺金色堂で <五月雨の 降残してや 光堂>。芭蕉は毛越寺には寄らなかったようである。木曽義仲のことを少しふれたが、大津の義仲寺で、芭蕉の遺言で木曽義仲の墓の隣に芭蕉の墓があり驚いた事がある。木曽義仲は平家物語でも、粗雑に扱われているようで気になっていたのだが、機会があれば、もう少し尋ねたい人である。そして、奥州藤原三代、泰衡も入れて四代についても、もう少し知りたい。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0303-1024x531.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0304-675x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0305-768x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0306-768x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0308-1024x768.jpg

 

 

東銀座の歌舞伎座の前に、岩手県のアンテナショップがあるので、そこでパンフレットをもらってきたところ、サイクル自転車や定期観光バス、中尊寺境内と宝物館内の音声ガイドもあることがわかる。砂金は岩手県沿岸南部の気仙地方から平泉に運ばれていたのである。さらに、有料の詳しい資料もあった。そうか。アンテナショップへ行けばいいのだ。

このバスツアーのバスガイドさんは声がよく、『北上川夜曲』が美しい響きで車中を包んでくれた。

一応東北の今回の旅は、幕である。その断片はどこかで、顔を出すのであろう。

国立劇場にて  『東北の芸能 Ⅴ』 9月27日(土)14時開演  相馬野馬追太鼓、なまはげ太鼓、花笠踊り、寺崎のはねこ踊り、青森ねぶた囃子、鹿踊大群舞

 

       

      

東北の旅・青森~盛岡 (三内丸山遺跡)(7)

この旅の途中で、秋田県立美術館の情報の他に、他の仲間の高野山の旅行中のメールも入った。山歩きをする人なので、南海高野線の九度山(くどやま)駅から高野山の大門そして奥ノ院までの道を勧めたのである。大門までが19キロで、自分は歩きたくても無理である。メールには<6時間かかって登り、充実した気持ちで、これから夜行バスを待って帰ります。>とある。

達成感がこちらにも伝わる。 帰ってから、高野山の旅とこちらの東北の旅との情報交換で、資料などもあちらに行きこちらに行きで混乱している。嬉しいことに、高野山町石道<慈尊院から大門を経て奥ノ院>も、途中電車を使えそうで、私向きのコースを教えてもらえた。

東北の旅を早くまとめなければならない。

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、県立美術館から歩いて10分以内である。ここは、一時間おきくらいにボランティアガイドがあるので、それを利用させてもらう。集合時間までの空いた時間に展示室のほうを見学する。板状の土偶は初めてである。装飾用のヒスイや玉なども大きいものがある。外での見学は暑い日で、日蔭がなく頭の中は集中力が散漫であった。

この三内丸山遺跡は、江戸時代から知られているらしい。1992年から本格的な発掘調査が始まり、縄文時代の前期から中期の大規模な集落跡がみつかったのである。縄文文化は、約一万年間にわたって継続している。100年が100回である。であるからして、そこの土地の地層を深く深く掘って行くと、そこに埋められたものが解かり、その実際の断面図をみることができるようになっている。その他、床を掘り込んだ竪穴式住居、集会所、共同作業所、冬の間共同で住んで居たであろう、大型竪穴住居、地面に穴を掘り柱を立てた高床式住居などが、その遺跡あとに建てられていて、中に入り広さなどを体験できる。

写真でよく見る6本の柱の建造物は、あそこに直径、深さともに2メートルの穴が6つあり、穴の中に直径1メートルのクリの柱が残っていたのである。大きなクリの木の下で、ではなく、大きなクリの柱の下である。祭神用の建物だったのではないかといわれている。発掘していくと、住居があり、お墓があり、ごみ捨て場がありと一つのムラの形が解ったのである。ここで、先人達は、縄の模様の土器なども使いながら、長い間暮らしていたわけである。空を見上げると、夜は星が綺麗なような気がする。北海道、北東北を中心にした、縄文遺跡群を世界遺産へつなげようと、地元の方達は頑張っておられる。

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0298-1024x768.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0299-685x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0300-1024x768.jpg

 

 

 

18の遺跡があって、三内丸山遺跡はその一つということになる。もし世界遺産になったら、18の遺跡を制覇しなければ、全部を把握したことにはならないということである。世界遺産受講講座などが必要となるかもしれない。

今も黙々と遺跡の発掘は行われている。発掘現場を見て、三内丸山遺跡を後にする。そして夕方には、盛岡である。次は、最後の一ノ関から平泉の旅である。

 

2014年7月13日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

東北の旅・五所川原~青森~盛岡 (青森県立美術館)(6)

五所川原から青森で一つ残念だったことがある。岩木山の頂上にいつも雲がかかっていたことである。岩木山の全貌を楽しみにしていたのだが、ついに見ることができなかったのが、心残りである。

新青森駅の観光案内で、<青森県立美術館><三内丸山遺跡>の行き方と時間配分を検討してもらいう。以前、<棟方志功記念館>へ行ったとき、バスの本数が少なかったことが頭にあったので、青森の場合、多くの観光は無理ときめていた。<青森県立美術館>と<三内丸山遺跡>は隣接している。係りのかたが、青森駅に行き新青森駅にもどることなど、幾つか調べてくれた。新青森駅から歩いて30分位なのであるが、今回は歩きはパスし、結果的にタクシーで新青森駅にもどることとなった。

<青森県立美術館>は思い描いていた通り、広い自然空間の中に、白い幾何学的な建物が居座っている。入ってすぐに高倉健さんの映画上映会のお知らせのチラシを見つける。モノクロの渋いチラシである。展示物を観終ったあとで、ここで、横尾忠則さんのポスターがあって、高倉健さんの任侠映画が見られたらシュールでこの白い建物との対抗が面白かったのにと思ったりした。上映のなかに任侠映画は、入っていなかった。

最初の展示室が<マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画>で、バレエ舞台の大きな背景画の綿布が三点展示されている。シャガールがアメリカに亡命していた時に手がけたものである。伝説的なロシアのバレエ団バレエ・リュスには、ピカソやマティスなども係っていたが、シャガールも、その流れをくむバレエの舞台美術や衣装に携わっていたのだ。今、国立新美術館で『魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展』(6/18~9/1)を開催している。

<第一幕 月光のアレコとゼンフィラ>→青 <第二幕 カーニヴァル>→赤と黒 <第四幕 サンクトぺテルブルクの幻想>→左手の黄色のロシアの町  →の後は自分のメモで、色使いが印象に残ったのであろう。

次が、奈良美智さん。韓国で展示された「ニュー・ソウルハウス」という、作られた小さな開放された部屋の中の展示を見て移動するのが楽しかった。壁に囲まれた外には巨大な白い犬の作品がある。頭は青い空の光を受けている。「あおもり犬」。実物では感じなかったが、絵葉書の「あおもり犬」は随分悲しい表情である。光と影のコントラスであろうか。写真の枠に入った悲しさかもしれないと勝手に解釈する。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0297-667x1024.jpg

 

 

奈良さんの作品はよくわからないのである。ただ今日、或る人にカチンときて、そうだ、この気分で、奈良さんのにらむ少女とにらみ合いたいと思った。そんな鑑賞の仕方もありかな。

次は、棟方志功展示室。志功さんも、故郷の青森ねぶたが大好きな方である。自らも、作品も、制作過程も、あの躍動感はお祭りのようであり、祈りがある。棟方志功記念館でのほうが、見る側の状況との連鎖反応からか、物凄い生命力が押し寄せてきた。今回は冷静に線や色などを楽しんだ。

最後は 「寺山修司×宇野亜喜良 ひとりぽっちのあなたに」の部屋。その時は<ひとりぽっちのあなた>の気分ではなかったので、このポスターは観た事がある、こんなポスターもあったのかと、宇野さんの細い線、ファンタジーでありながらそれを裏切る無機質な感じを楽しんだ。ポスター「毛皮のマリー フランクフルト公演版」の、映画『大いなる幻影』の捕虜収容所所長役のエリッヒ・フォン・ストロハイムが描かれているのが好きである。このポスターを初めて見た時、<あの収容所の所長だ。>とそのことだけ判ったので好きなのである。前衛とされるものの中に自分の知っているものがあると安心するものである。ただそれだけのことであるが。「毛皮のマリー」の脚本を読んだとき、毛皮のマリーの入浴しているそばに、<その傍らに、なつかしいエリッヒ・フォン・ストロハイム氏を思い出させるような下男がタオルを持って、ほぼ直立不動の姿勢で立っている。>とあったので、そのポスターの無機質性に立体感が加わったのである。ポスターハリス・カンパニー所蔵の物も沢山展示されていた。苦労して収集された物が生かされ、その仕事の意味が伝わる。パソコンを閉じて旅に出よう

インパクトの強い方々の作品が、なぜか、青森という土地の空気に飲み込まれて、大人しすぎた。晴れ渡った暑い日であった。それでいながら、冬になると別世界の自然に立ち向かうことが想像出来てしまう。冬の季節のなかで、この美術館を訪れたい。想像とは違う何かが見えるのかもしれない。

 

2014年7月11日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

東北の旅・青森五所川原の町(5)

五所川原に泊ったのは、次の日の青森までの到達時間が適当であったことと、ホテルに温泉があったからである。温泉でなくとも、大浴場があると、やはり疲れがとれる。今回の旅は、骨折を予期していたようなゆっくりタイプである。いつもは、ホテルで、次の日の予定を決めるのに時間を取られるのであるが、今回はその必要もない。そんな気力もないほど疲れてしまい早々と寝入ってしまった。身体は不思議なものでどこかが悪いと、かばうのであろう。旅のあと、それが腰にきてしまった。

さて、太宰治に関してもう少し付け加える。金木と五所川原を、太宰さんは小説『津軽』で次のように表現している。<大袈裟なたとえでわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京を例にとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といったようなところであろうか。ここには、私の叔母がいる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。>

太宰は、母が病弱だったため生まれるとすぐ、乳母に育てられる。三歳のころ、子守りのたけが太宰に付き添う。叔母とたけについては、小説『思い出』でも語られている。五所川原へは、たけも一緒にいっている。そして、小学校に入るとたけは突然いなくなる。お嫁にいったのだが、太宰が後を追うのではないかとの懸念からか黙っていってしまう。お盆には訪ねてくるが、よそよそしかったと書いている。そして小説『津軽』は、最初から『津軽』を書くために郷里を旅し、たけを探す旅となっている。

太宰の実家の<斜陽館>は、五所川原から津軽鉄道に乗り換え、6つ目の駅である。以前金木は訪ねているので今回は予定に入れていない。それなのに太宰さんと会えるとは、旅の面白さである。こちらのNPOの団体が太宰の訪れた叔母さんの蔵を、現在復元再興を前提に解体し保存していて、記念館にしたいとしている。<立佞武多>を復活させた町なので、成し遂げるような気がする。

青森と弘前のねぶたは知っていたが、五所川原は知らなかった。正式には、青森は<ねぶた>で、弘前は<ねぷた>らしい。五所川原は<立佞武多(たちいねぷた)>である。<立佞武多の館>に行くと、高さ23mのねぷたを見ることが出来る。4階の高さで、ねぷたの顔が目の前にある。こんにちわである。このねぷたは、明治時代に隆盛を極め、電気の普及により、電線が邪魔をし、低いねぷたになったのであるが、1996年に市民有志が22mの大ねぷたを復活させる。そのねぷたは燃やしてしまうが、その炎は市民の心に灯され、1998年に<五所川原立佞武多>として、90年ぶりに復活させる。実物を見て、写真を見ていくと、1996年の市民の気持ちが伝わってくる。

時期によっては、制作作業を見学できるらしい。巨大スクリーンと係りの人の解説付きで映像が見れるので立佞武多がより身近なものとなる。三体のうち毎年一体は新しくされ、今年は<国姓爺合戦>の和藤内の虎退治のようである。歴史的な題材で、義経、陰陽師など歌舞伎にも通じるものが多い。ねぷたの背面絵も興味深い。葛の葉があったりする。お祭りの時は、この館のガラス面が開き、立佞武多が出陣する様は圧巻間違いなしである。形は逆三角形で、一番下の台座に<雲漢>の文字がある。これは<天の川>の意味で、青森ねぶた、弘前ねぷたにもあるらしい。「ねぷた祭り」は、七夕の日の「眠り流し」(燈籠流し)が起源という説があるのだそうだ。今夜の天の川は、遥かかなたのようである。

 

ねぷた

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0290-1-685x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0291-1-685x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0292-1-1024x692.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0293-1024x768.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0294-1-1024x752.jpg

 

友人に<立佞武多>の絵葉書を送る。<感動したのに納得>とひと言付け加える。友人も去年同じところを骨折したらしい。そちらの同じ道は通りたくないのであるが、仲間意識が強すぎる。

五所川原には、青森県一の富豪がいて、その人の住まいは<布嘉>と呼ばれ、<斜陽館>と同じ弘前の棟梁が建てている。そのレンガの塀が少し残っていた。その屋敷のミニチュアが、<布嘉屋>という資料館にあるそうだが開館時間が過ぎていた。兎にも角にも、五所川原宿泊も上手く行ったことになる。

内田康夫さんの『津軽殺人事件』には、<斜陽館>や<五所川原>の事も出てくる。<斜陽館>は、旅館だった時代で、印象があまりよくなかったらしい。浅見光彦さんには、『旅と歴史』だけの仕事で、もう一度訪ねてもらいたい。今回の旅に『砂迷宮』(内田康夫)を持参したが、開かずに持ち帰った。この本に手がいったのは、泉鏡花の『草迷宮』と、寺山修司さんが泉鏡花のこの作品をもとに映画化しているということを知ったからである。今、読み始めている。

五所川原の<立佞武多>を太宰治さんに見せたかった。もし見ていたら、彼の中で何かが変わっていたような気がする。

 

東北の旅・五所川原~青森~盛岡 (青森県立美術館)(6) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

東北の旅・鶴岡~秋田~五能線~五所川原(4)

羽黒山の五重塔ライトアップツアーも、夏至のころは日が長く、その時間調整が難しいらしい。鶴岡から秋田への列車からの風景、羽越本線の遊佐あたりから、鳥海山が裾野から、山頂まで全ての姿を見せてくれる。美しい。見惚れる。この風景を見られただけでもこの旅は握りこぶしである。そしてしばらく進むと海が見えてくる。秋田までの車窓風景、藤田嗣治さんの壁画『秋田の行事』、これだけで充分フルコースである。

五能線は、秋田から青森までの奥羽本線の東能代から川部までの日本海側を周る鉄道である。奥羽本線と五能線に囲まれた内側は世界自然遺産の白神山地や岩木山などの山、山、山、である。東能代のホームに<五能線起点駅>の小さな看板がある。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0283-1-826x1024.jpg

 

五能線は、景勝の良い所で徐行運転をしてくれたり、停車時間を設けて写真を撮る時間を与えてくれる。能代駅ではさっそく、バスケットボールの強い能代工業高校に合わせてか、ホームでバスケットシュートが出来る。残念ながらシュートミスである。

波穏やかな優しい日本海である。十二湖駅などは、降りて行きたい駅名である。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0284-1-1024x682.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0285-1-1024x685.jpg

 

千畳敷駅では15分停まってくれ、発車三分前に警笛を鳴らしてくれる。これは、列車によるらしい。日本海に夕日が沈む鑑賞タイムに走る時間帯の列車もある。調べる方はしっかり調べて乗るのであろう。今回は、予定していた列車が満席で急遽の変更旅となってしまった。千畳敷の前には、大町桂月さんの千畳敷の景観を書いた文学碑と太宰治さんの小説『津軽』の文が彫られている<千畳敷海岸隆起生誕200年記念>の碑がある。

 

大町桂月文学碑

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0286-1-667x1024.jpg

 

<千畳敷海岸隆起生誕200年記念>の碑

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0287-1-1024x693.jpg

 

『津軽』は<木遣から、五能線に依って約三十分くらいで鳴沢、鰺ケ沢とすぎ、その邊で津軽平野も、おしまいになって(略)一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この邊の岩石は、すべて角稜質擬灰岩とかいうものだそうで(略)この邊の海岸には奇岩削立し、怒涛にその脚を絶えず洗はれている、と、まあ、、、、。>と、まあ長いので中を省略させてもらった。太宰さんは、五所川原方面から、こちらとは反対に向かってきているわけである。その奇岩の場所で降りれたのも縁であろうか。この先で予想もしなかった、太宰さんとのサプライズの出会いがあった。

鰺ケ沢から五所川原の間で、津軽三味線の生演奏があるという。これは楽しみである。ところが、電車の線路の上を走る振動の音が三味線の音の邪魔をする。車中という空間での楽しみ方もあるが、どうも納得がいかない。他の車両では、放送で聴くかたちとなる。そのほうが音に迫力がある。三味線の音を聞いていると、車窓からの風景が冬景色となる。そんな楽しみ方が終わると五所川原である。

五所川原駅を出てそく観光案内へ。友人がツアーで行った、五所川原でのねぶたの記念館で見たねぶたが圧倒されたと聞いていたので、まずその記念館の場所を聞くためである。<立佞武多(たちいいねぷた)の館>である。駅から歩いても10分以内でホテルからも近い。観光案内のパンフの中に、<太宰治 ブラリ思い出散歩帖 五所川原>の冊子がある。太宰さん関連の散歩コースである。これはいただきである。

ホテルに荷物を置き、歩くコースを検討。<太宰と昭和の「思い出」をみつけてみたい散歩。グルッとひとまわり1時間ちょっとです。>とある。<立佞武多の館>もそのコースの途中である。

太宰は叔母キヱさんを慕っていた。その叔母が太宰の実家のある金木から五所川原へ移るおり、太宰も叔母と五所川原についてきて、小学校入学までを過ごす。その後もしばしば訪ね、戦時中、金木に疎開したときも、叔母のところに寄っている。叔母宅も空襲で焼かれ、<土蔵>が残りそこで友人達と酒宴を開き文学や様々な話をしたようである。

 

叔母の家の蔵の跡地

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0289-1024x563.jpg

 

岩木川に架かる<乾橋>の手前で岩木山を眺めつつ河原を歩き<招魂堂>へ。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0295-1024x645.jpg

 

7つか8つのころ落ちたという顎のあたりまで水の深いどぶとされる<みずとみどりの小公園>。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0296-1024x687.jpg

 

芝居小屋<旭座>。この芝居小屋には、廻り舞台もあったという。それぞれ、小説『津軽』、小説『思い出』、随筆『五所川原』に出てくる。また、鎌倉での事件の後始末や結婚の時の衣裳を揃えた津島家のお抱えの呉服屋さんもこの五所川原であった。金木では見せなかった、太宰治の思い出の町といえる。

 

東北の旅・青森五所川原の町(5) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

東北の旅・慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡(3)

<慈恩寺>は慈恩寺縁起によると、僧行基の奏上により、聖武天皇が勅命し開基される。鳥羽院の時には奥州藤原基衡が再興修造。後白河院の時には、平清盛の父・忠盛が奉行であった。鎌倉になると、頼朝の家臣・大江広元がこの寒河江(さがえ)荘の地頭となり、慈恩寺を庇護していく。そのあと山形城主最上氏が庇護。江戸時代には、寺領は関東以北最高となるが、明治新政府により、寺社領没収となる。色々な宗派の影響を受けつつ昭和47年、「慈恩宗」となる。慈恩宗のただ一つのお寺ということになる。バスガイドさんが、このあたりの事も詳しく説明してくれていたが、記憶出来ないので、本山慈恩寺発行書物に頼る。

 

慈恩寺本堂

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0270-1024x768.jpg

 

「慈恩寺の文化財」

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: image-9-762x1024.png

 

この本は慈恩寺の文化財、仏像の写真が網羅されているので、拝観時間の少なかったぶんも補える。京都で作られた仏像がこの山形の地にあるのが、不思議であった。京の仏師が移り住んだのかと考えたが、京がすぐれた仏師を手放すわけがない。造った仏像を移動させたのである。京都から琵琶湖をへて、福井の敦賀から船で酒田に渡り、最上川を上って辿りついたようである。

慈恩寺は、JR佐沢線の羽前高松駅から徒歩20分なので、来ようと思えば来れるところである。お目にかかれない仏様もあるが、どんな場所に秘そんでおられるかがわかったのでその場所で再び想い描きたいものである。本堂から10分位の山の頂には山王台公園があり、山形盆地を眺めることができるらしい。

バスガイドさんは、月山羽黒山湯殿山の出羽三山の車中から見えるただ一個所の位置も教えてくれる。出羽三山は山岳修験の霊場で、開山は崇峻天皇の皇子・蜂子皇子である。羽黒山の山頂に建つ三神合祭殿は、月山、羽黒山、湯殿山の三神を祀っている。月山、湯殿山が雪のため、登れないので、羽黒山に三神を祀ったと伝えられている。この祭殿の藁葺屋根は、厚さ21センチもあり、吹き替えるのに1年かかるという。その祭殿の姿を映す池が鏡池。映すだけではなく、古来から、銅鏡を奉納し、埋蔵されている。

 

羽黒山三神合祭殿

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0274-2-1024x976.jpg

 

出羽三山を開いた蜂子皇子(はちこおうじ)は、曽我氏との争いに敗れ、船で日本海を北上し八人の乙女に招かれ鶴岡市由良に着く。そして、三本足の八咫烏(やたがらす)に導かれ羽黒山にいたる。自然崇拝者で、修験道の山として全国に知られる。今でも、宿坊は山伏の方が多い。バスガイドさんの説明のお蔭で、駅で手に入れた、旅ガイドもスラスラ頭に入る。この蜂子皇子を祀る蜂子神社の秘宝『蜂子皇子の尊像』が公開されていた。お祓いを受けてから拝観する。よく知られているお顔は(私は初めてである)、人間のあらゆる苦しみ、悩みを一人で受けられ怖いお顔であるが、秘蔵のお顔も苦難を通過して羽黒山に到達したお顔であった。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークでもある。

 

蜂子神社

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0275-1024x768.jpg

 

 

そして、期待の五重塔。これが、平将門創建なのである。こちらは、ボランティアのガイドさんが説明についてくれる。時間が制限されているので、話したいことがあるのに残念の感で説明してくれる。旅行者の中に、将門がここまで来たなんて考えられないというかたがいますが、歴史はロマンですからとガイドさん。解かります。それほど将門は庶民のヒーローだったのである。こちらとしたは嬉しい。歌舞伎の<将門>を、この場に置いて思い描いた。この五重塔のライトアップを見るツアーもあるらしい。 柿葺落四月大歌舞伎 (四)    平将門の人気

 

羽黒山五重塔・平将門建立・出羽守最上義光修造

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0279-2-1024x644.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0280-3-670x1024.jpg

 

 

時間はなかったが、満足であった。随神門から五重塔の前を通って三神合祭殿に到る表参道杉並木は歩きたい道であった。身体的状態からも、これが、限度であったが。

最上川に沿っても文化がありそうである。最上川下りで船頭さんが歌われるのは、『最上川舟唄』であろう。

JR左沢線左沢駅で下車する大江町の左沢は、県内で初めてその景観が国の重要文化的として選定を受けた町らしい。<左沢>の読み方→<あてらざわ>。何かいわれがあるのであろう。

バスガイドさんの厳しい愛の時間制限で、バスは予定通り鶴岡駅に到着。お蔭さまで中身の濃い旅であった。鶴岡は藤沢周平さんの街でもあるが、今回は素通りで秋田に向かう。

 

東北の旅・鶴岡~秋田~五能線~五所川原(4) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

映画 『こだまは呼んでいる』

旅のバスガイドさんから、『こだまは呼んでいる』の映画のことを書いて置きたくなった。

映画館<ラピュタ阿佐ヶ谷>で、4月から6月にかけて、<監督・本多猪四郎の陽だまり>を開催していた。~ゴジラの足もとの小さなドラマ~。誰が考えたのか。『ゴジラ』で有名な本多監督の系統の違う他の作品の紹介である。チラシの文を載せる。

<1954年『ゴジラ』で日本中に衝撃を与え、数々の傑作怪獣映画を生み出した監督・本多猪四郎。ダイナミックな特撮映画の傍らで、庶民の葛藤と良心を描いた素朴な人間ドラマを数多く手がけました。ヒューマニズムを映画に求めたゴジラの父ー。そのまなざしを辿る9作品をお楽しみください。>

『若い樹』『恋化粧』『おえんさん』『この二人に幸あれ』『花嫁三重奏』『東京の人さようなら』『こだまは呼んでいる』『鉄腕投手 稲尾物語』『上役・下役・ご同役』

そのうち1作品だけ見れたのである。

『こだまは呼んでいる』 脚本・棚田吾郎/撮影・芦田勇/音楽・斎藤一郎/出演・池部良、雪村いづみ、藤木悠、沢村貞子、千石規子、横山道代、飯田蝶子、左卜全、由利徹、若水ヤエ子、八波むと志

この出演者を見ただけで、歌謡音楽コメディー映画と思う。そこに池部良さんが入っているのが面白い。気楽に笑ってこようと思ったのが甘かった。軽いが、そこは本多監督、しっかり撮るところは撮っている。歌も、雪村さんが一曲歌うが、タイトルにも出てこないし、歌が先行していない。添えてある。そして、雪村さんのバスガールは、仕事に忠実な田舎のバスガールである。

このバスガールと組んでいる運転手が池部良さんである。怒りん坊の運転手で、雪村さんはよく注意されるが、明るく交わしている。映像からすると、甲府周辺で韮沢駅から宿木村までのバスである。出発前に買い物をする。それは、先々の停留所で渡されていく頼まれものである。買い物の宅配も兼ねているわけである。お弁当を届けたりもする。人気ものである雪村さん、そろそろこの仕事にやりがいを無くしている。そして、素封家の息子から結婚を申しこまれる。しかし、身分違いということで、結婚前の行儀見習いの条件つきである。雪村さんは、池部さんに相談する。本当は池部さんは好きなのであるが、雪村さんが成し遂げれると応援する。雪村さんは、やってみることにする。ところが、やはり務まらない。実家に帰っているとき、近くのお嫁さんが産気ずく。雨が酷くなりバスガールもいないので、危険だからバスは出せない。そこで、雪村さんに声がかかり、再び池部さんとのコンビが組まれるのである。

細い山間の道である、雪村さんはドアを開け、車輪がスリップしないように崖下と道路の幅を見つつ、オーライをかける。このあたりの撮りかたはリアルである。そうだ、かつてのバスガールさんは、こうした役割も引き受けていたのだ。対向車があれば、バックさせて、お互いが通れるように誘導する。バスの走る映像がかなり長い。そして無事目的地に到着させる。雪村さんは、何でもないと思って居た仕事に改めて充実感を味わう。そして、結婚を取りやめ、バスガールの仕事にもどるのである。相変わらず、運転手の池部さんは嬉しいのに怒りんぼである。

この単調な走行するバスの映像は、雪村さんと同じ気持ちにさせ、エンドで涙が出る。結構目頭を押さえている人が多く、皆さん裏切られた口であろう。

村祭りの場面、周囲の山々、そこで、穏やかに暮らす人々。喜劇的部分もあり、池部さんがあえて、喜劇として、目を真ん丸にしたりする場面もあり、わざとらしい下手さで笑ってしまう。

<ゴジラの足もとの小さなドラマ 監督・本多猪四郎の陽だまり> ピッタリのタイトルである。

7月、あちらこちらのテレビで、『ゴジラ』特集である。本多監督は、怪獣から逃げる人々をも粗末な扱い方はしなかったといわれている。怪獣映画にも、陽だまりはあるような気がする。